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『宿木くん。砂里先生。助けていただいてありがとうございました』
その文章は、ノートパソコンのディスプレイに、驚くほどの速さで打ち込まれていた。
パソコンを用いた筆談。
それが、声の発せられない向居カンナのとったコミュニケーション手段だった。
ベッドから起きた向居は、浅黄色のパジャマ(砂里先生の私物)の上から、今しがた先生から借りた白衣を羽織って、テーブルの上のパソコンに向っている。ぼくと先生は、彼女の背後からその画面を見る形になるので、向居の表情を伺うことはできない。
しかしさきほど、向居の顔を見て分かったことがある。
向居の顔は、思っていたほどに三和川ミナとはそっくりではなかった。やはり一年の年の差のせいであろう、細部にあった違いは少なくない。教室では前髪で隠されていたし、廊下では顔を見たのは一瞬だった。それに体育倉庫は照明が暗くて分からなかったのだ。そして二人の一番の違いは表情だ。あの明るい三和川とは異なり、向居の表情の根底には、いつも怯えのような暗いものが感じられている。
それにしても向居のキーボードを叩くスピードはかなり速い。ほとんど普通に話すのと同じくらいの速度で打ち込んでいる。当然、叩く音は聞えないので、まるで自動で文字が表示されていっているようだ。おそらく音を失ってから、その代わりを果たすために習得したのだろう。ネットでのチャットなどならば、相手には自分の情報は、自分から教えない限り伝わらないので、向居も呪いのことを気をつける必要はないはずだ。そう思えば、ネット社会もずいぶんと有益なんだな、とぼくは今頃になって感心した。ちなみにぼくはかなりの機械音痴であり、パソコンなどは問題外である。キータッチも全部人差し指でやらないといけないくらいだ。
「別に礼はいいさ。あとで料金の方は頂くから」
砂里先生は、パソコンに打ち込まれた言葉に対して、自然に返答していた。
そういうところはさすがは職業人だ。甘えはない。
勝手に向居をここへ連れてきたのはぼくなので、いきなり言われた向居としては多少の文句もあるか、と思っていたが、意外にも返事は素直なものだった。
『はい。分かりました。今は手持ちがないので、後日にお持ちします』
「そうしてくんな」
『宿木くん』
と、今度はぼくが話しかけられた。
いや、話しかけられたでいいのだろうか。でも話はしているわけだし、おかしくはないのか。そんなことを考えながら、ぼくは、なに? と返事をした。
『ありがとうございました。あなたが家事の中から私を助けてくれたんですね』
そうか、向居さん、家庭のことに忙殺されていたんだ……ではない。
すぐに本人も気づいたらしく、『家事』の部分が『火事』に直された。パソコンでの筆談ではこんなトラブルもあるのか、という新たな発見だった。
「ああ、ちょうど家の前まで来たのが出火したところだったから。向居がすぐに見つかる場所にいてくれてよかったよ」
『あの時は、いきなり窓の向こうで燃え上がった火に驚いてしまったんです』
それはさきほど砂里先生が話したとおりのことだった。さすがは(闇)医者。患者を診る目はたしからしい。
『でも……』
……までちゃんと入れていた。
慣れている、というか、習慣なのかもしれない。
ぼくは『でも』の後に文章が続くのを待った。
次の言葉はなかなか出てこなかった。それを打ち込むことを怖がっているかのように、指を動かす事を躊躇っていた。それでもやがて、向居は一打一打ゆっくりとキーボードを叩き始めた。
『なんでですか?』
最初、その言葉の指すところが分からなかった。
向居はすぐに文章を続ける。
『私たちは、あなたを脅迫しました。私の呪いをあなたにうつすぞ、とまで言って脅したのですよ。そんな私を、あなたはなぜ助けたのですか? 私とあなたの間の関係なら、例え見捨てることはあっても、命の危険を冒してまで助けることはないでしょう』
それは、たしかにその通りだった。
ぼくは数時間前に、向居カンナと三和川ミナの姉妹に脅迫を受けていた。
たしかにぼくにも思うところがないわけでもないが、それは向居の持つ、呪いに関することであって、ぼくの不幸といえ、二人の行動は、彼女達からしてみれば順当な行為だとも思える。順当な、――防衛行為だと。
生物が自分の身を守ろうとするのは当然であり、自然な行動だ。
それが法を犯すものであろうとも、倫理を犯すものであろうとも、生き物は時に自分の身を守るためならば積極的にしろ消極的にしろ、それを犯す。誰もが誰も、ソクラテスのようにはいかないのだ。
ぼくはなるべく平然とした口調で言った。
「別に普通のことだろう? 困っている人を助けようって思うのは」
向居はすぐに返答を打ち込む。
『普通ではありません。普通の人は決して火の中に飛び込んだりはしない。それに自分を脅している相手を快く思わないのは当然です!』
エンターキーを押す指には力がこもっていた。
疑問が、怒りに転化されかけているのだろうか。あれほどのことがあったのだ。気が動転していてもおかしくはない。むしろ今の向居は静かすぎるほどに思える。
それでもぼくは態度を変えることなく、続けた。
「言えてるかも。じゃあ、きっとその段になって忘れてたんだ。あんな大変な事を忘れてるだなんて、ぼくの頭もそろそろ危ないなあ」
向居の気を和らげるために言ったつもりだったのだが、あまり良い言葉は出なかった。
向居はぼくの言葉に対して、すぐに文章を返す。
『それじゃあ、宿木くんはどうして私たちの家を訪れていたんですか』
そして、次の単語を書き入れることを少し躊躇したのか、わずかな間手が止まっていたが、やがてゆっくりとだがそれを打ち込んでいった。
『復讐をするためじゃ、なかったんですか』
そう打ち込んでいる向居の肩は、震えているようだった。
――復讐。
たしかに、それは順当な考えだろう。さきほどの考えに続いて順当だ。
人が自身の命の危機を感じた時に、法を犯す行為をする。それが例えば、人の弱みを握ったり、脅したりしたものだったとして、その後に必要なのは反撃への警戒だ。向居がそれを恐れていたことも頷ける。もしかすると、目を覚ましてからずっとぼくの行動に対して怯えていたのかもしれない。静かすぎる、と感じたのも、こちらの感情を逆なでしないことを考えてのことだったのだろうか。
ぼくが返す言葉を選んでいた時、それを制する形で口を開いたのは砂里先生だった。
向居を安心させるようとしているのか、その声は普段のものより少し明るい。
「そいつは気にすることないよ。お嬢ちゃん」
砂里先生は、ぼくの方をちらりと見て、
「ミヤの野郎は底抜けのお人よしなのさ。だからあんただって助けちまった。こいつのことだから、あんたが親の敵でも、貸した百円をいつまでたっても返してくれない相手でもきっと助けに入っただろうさ」
と、それはそれは楽しそうに言った。
いや、百円返さない程度の恨みだったら誰でも助けるだろうよけどさ。
『お人よし』
砂里先生の言葉を聞いて、向居がただそれだけを打ち込んだ。
それになにか言葉が続く気配はない。
代わりに口を開いたのは、またもや砂里先生だった。
「そうさ。それにあんたみたいなのの専門家なんだよ。この若輩は」
『専門家? わたしみたいの、と言うと、この呪いのことですか?』
「そう。怪奇現象、怪事件、なんでもござれ。まあフリーの『祓い屋』みたいなものさ」
『祓い屋、ですか?』
砂里先生が今度はしゃべるのではなく、ぼくに視線を向けた。
アイサイン。
お前の説明する番だ、と言っているのが分かる。
たしかに、ここからはぼくの話すところだ。
「実はそうなんだ。向居。まあ、『祓い屋』なんてたいそうなものを語ってはないし、別にお金を取ってるわけじゃない。ただこういうのに対する経験と手段をいくらか持ってるというだけで」
『どういうことですか?』
「ぼくは、まあ霊感体質みたいのがあってさ。そういうのに引かれやすいらしいんだ。向居の“呪い”みたいなものに」
そうしてぼくは説明を始めた。
この説明だってもう何度目か忘れたくらいなので手馴れたものだ。
ぼくがこの仕事、というより生き方を始めたのは五年前からだった。
その時、向居のものとは違うが、ぼくは一つの怪異に遭遇し、霊感体質のようなものを身に着けた。しかし、それによって別に幽霊が見えるようになったり、超能力じみたものが宿ったわけではない。ただ、昔に遭遇したもののような怪異――怪しく、人とは異なるものに出会いやすくなってしまったのだ。
それはすぐに命に関わるものではなかったけれど、専門家の話によると、いつかは命に関わるかもしれないとのことだった。それを回避するには、それらに対しての防御手段、または対抗手段を覚えておく必要があるそうだ。そこでぼくは自分の身近で起こった怪異には積極的に触れ、自分を守るための経験を積みたいと考えた。つまりこれも一つの防衛行為なのだ。
そのようにぼくは自分の行動の理由を説明した。けれど話の半分くらいは本当のことではあるが、残りは嘘だ。いつものことだが、話していて胸が悪くなる。本当の目的はあまりに私利的なものであるというのに。罪悪感で自分を殺したくなる程だ。
でも殺すわけにはいかない。
殺されるわけにもいかない。
ぼくは怪異を解決し続けなければならないのだから。
それが義務であり、約束であり、誓いだから。
ぼくの説明を聞き終え、向居はいくらか納得をしてくれたようだった。
それでもまだ何か言いたげではあったので、ぼくは適当な言葉を選んで場をつなぐことにした。
「そういえば、怪異に引かれやすいのはぼくの名前のせいだ、とも聞いたことがあるかな」
それは先ほども少し言った専門家、夏儀さんに教えられた話だった。
ぼくの名前は『宿木都(やどりぎ・みやこ)』と書く。
名前は父さんがつけてくれたもので、たくさんの人と一緒にいられるように、という想いが込められていると聞いたことがある。
けれど、『名は体を表す』。
なんでもいい。辞書を引いてみれば分かるだろう。
そのものの持つ“意味”とは、常に一つきりではないということが。
つまりぼくの『都』という名前は、別のものが集まるとっかかりになってしまったのだ。
しかも『宿木』という苗字もまた、それに関するところがあった。
『宿木』は、または『寄生木』とも書く。それは他の樹木に張り付き、時には内部にまで侵入してその栄養を奪って成長する樹木のことだ。寄生虫、寄生体のように、他者に寄って生きる木のこと。
これはまさに“憑き物”のメタファーだった。
何かに寄るのではなく、憑く。そして憑かれた者を宿として、時には栄養源として生きる。それが“憑き物”。
つまりぼくの名前は『憑き物の集まるところ』という意味を持っていた。
それは最悪の話だが、ことぼくの事情に関して言えば、それは最高の話だった。
探す必要のあるものが、向こうからやってきてくれるのだから。
と、最後の部分は秘密だったので話すことはしなかった。
『そうですか。名前が』
向居の方もいくらかは納得してくれたようだった。
そして少し何かを考えるようにしてから、文章を続けた。
『私も、そのことは考えたことがあります』
「そのことって、名前のこと?」
『そうです。私とミナは一緒に洞窟へ入ったのに、呪いを受けたのは私だけだった。たしかにあの池に石を投げ込んだのは私だったけど、それが私である必要はなかったはず。ただの二分の一の外れくじを引くのは、私ではなくてもよかったはず。それならなぜ私だけがこうなってしまったのか』
一瞬、何かに躊躇うようにキーを叩く手が停まったかに見えたが、それはすぐにまた動き出した。
『それが名前です。私の名前がカンナで、妹はミナ。この二つの名前に、どんな漢字が当てられるか分かりますか?』
向居はどうやらぼくに問いかけているらしかった。
砂里先生も考えているようだが、先生はこういうクイズじみたことはかなり苦手なので(警察と仲の悪い鳥は? → サギ。という問題を三日考えて解けなかったほどだ)、あまりあてにはならないだろう。
どうやら向こうは考える時間を与えてくれているようなので、ぼくも考えてみる。
ヒントはここまでの会話だ。
三和川ミナと、向居、いや、その頃は三和川カンナか。その二人が洞窟に入って、カンナだけが呪われた理由。呪われる方向へ進んでしまった理由。名は体を表す。名前が鍵だ。つまり、カンナの名前の方が呪いを受けやすかったということ。そんな名前あるのか?
カンナ、ミナ、神、呪い、……
それらを羅列することによって、ぼくの中で答えは出た。
気がついた時には思わず手を叩いてしまった。
「そうか。月だ」
『ご名答です』
すぐに向居は答えてくれた。
しかしぼくの隣にいる砂里先生はまだ分かっていない様子で、頭をひねっているようだった。やがて諦めたらしく、ぼくに解答の説明を求めてきた。
「そのままですよ。砂里先生。二人の名前は月の名前なんです」
「月? 三日月とか、弓張り月とかか?」
砂里先生はまだ分からないらしく、ぼくの言葉に首をかしげている。
「違いますよ。月は月でも、一年を表す方の月です。睦月、如月、弥生とかのあれですよ」
さすがに全部は思い出せなかったけれど、それでもカンナは確かに印象の濃いものだったので憶えていた。
向居カンナは、向居神無で。
三和川ミナは、三和川水無なのだ。
神無月と、水無月。
陰暦における十月と、六月。
神様のいない月と、水のない月。
神無月の名前の由来は、八百万の神々が出雲大社に集まり他の国にいなくなることとされている。神去月とも言い、逆に神々が集まる出雲では神在月になる。
つまり、そういうことだったのか。
まさしく『名は体を表す』だろう。
向居カンナには神様の守護のない名前だった。名前が表すのは、別にその人の体格ではなく、その人の本体そのもの。その二人の名前の違いが二分の一に影響を与え、もしかしたら三和川だったならば、呪いさえ起こらなかったかもしれない。そんな推測が成り立つというわけだ。
どうやら夏儀さんが言っていたのは、こういうことだったらしい。
直接的に怪異の解決に使えるものではないが、出遭った原因を知ることもまた大切だ。怪異は意味なく現れない。不幸な偶然も、当然の帰結であり、必然の結果なのだ。
向居はぼくの説明にただ頷くだけだった。
砂里先生も納得したようで、また一服を始めようとしている。
なんとなく、それで話題が終了したかのように思えた。
向居は当然として、誰も何かを話し出そうとする気配がなくなっていた。
だからだろう。
だからなんの前触れもなく部屋の窓ガラスが粉々になって何か大きな塊のようなものが飛び込んできた時も、誰一人として悲鳴どころか声一つ上げることはなかった。
リビングの床中にガラスの破片が散らばる。
カーテンは破れはしなかったが、そこから入ってくる風で大きくふくらんでいる。
部屋にいた三人の視線が、その一点に集まっていた。
砂里先生は火をつけたばかりの煙草を落とし、振り返った向居は、驚きで目を大きく開いていた。
そしてぼくも、それから目を離すことができなくなっている。
三人の視線の先には、一人の少女がいた。
侵入者は、三和川ミナの姿をしていた。
顔は三和川ミナで、髪方も、体格も、三和川ミナのそれであり、服装は私服なのか上下赤色のジャージ姿だった。
しかし、違う。
こいつは三和川ミナでない。
窓際に立つそいつは、腕をだらりと垂らして上半身をわずかに前かがみにしている。
そして、その目が確実におかしかった。
限界まで開かれた大きな瞳には、理性の色は見つからない。
そう、それはまるで、獣の目のようだった。
その目が、今こっちを向いた。
ぼくと目が、合った。
思わず息をのんでしまう。
三和川ミナの姿をしたこいつには、それほどの威圧感というものがある。
そいつは、こちらを見たまま言った。
それはたしかに三和川ミナの声で。
「都ちゃん。見つけたよ」
そしてすぐにそいつは跳んだ。
こっちへ向って。
一切の助走を必要とせずに。
大声で叫びながら!
「お姉ちゃんを、返せっ!」
007
怪異、と一言で言ってもそれには様々なものがある。
民話や伝承、それを起こすものとされた妖怪や精霊などが世界各地で多く語られているように、そのバリエーションも数多く、もたらす効果もまた多種多様である。
怪異の起こる第一条件は、その怪異を認識する人間がいることである。
怪しく異なるものは、異なる対象がなければ怪しい存在ともなりえず、たとえそこにあったとしても、それはないことも同じになってしまう。
そして第二に、人の想いがあることである。
人に恐れられることにより形を成し、忌避されることにより明確化される。時に望まれることにより力を得、敬われることにより神性を持つようになる。それらの想いがあってこそ、怪異は人の前にあることができるのだ。
決して人とは異なる、それ。
人と遭って怪しき、それ。
それこそが怪異。
様々なものが見られる怪異だが、その中でも“憑き物”と呼ばれる怪異には、大きく分けて二つの種類がある。
一つは内在型。向居カンナにかけられた“呪い”はこれに含まれるものだ。それは怪異に憑かれた者の、内部から影響を及ぼす。外見は普通の人間でも、その身体や周囲に怪奇現象を発生させるタイプである。
もう一つは付属型。これは言ってみれば顕現した怪異である。怪異自らが形を持ち、宿主の姿形を変容させ、その形に準じた力を発生させる。
憑き物とは言わば寄生体であり、以上の二つは、身体の内に宿るか外に宿るかの違いだ。
人間とは異なるというところにおいて、なんの違いもない。
しかしどちらにしろ、悪化したそれは、いずれ反転をする。
それはまさに宿木が、寄生していた樹木を枯らしてしまように、宿主を完全に憑き物が取り込んでしまう。
それが反転。
それは怪異が完全にこちらに顕現するための、通過儀礼でもある。
付属型の場合、最終的には怪異そのものに身体を変容させられてしまうものもある。
その第一状態が、トランス状態であった。
トランス状態に入ってしまうと、取り憑かれた者は精神を侵食され、身体をその者の意思とは無関係に動かされてしまう。この状態の時、多くの場合は憑かれた者にその時の記憶は残らないが、稀にその者の意思が残ったまま、それに反した動きをとらされることもある。
部屋に飛びこんできた三和川ミナは、どうやらトランス状態に入っているようだった。
その気配からして、とても人間のものには思えない。
三和川ミナが何に憑かれ、何故トランス状態に入っているのかも分からないが、ぼくにはさらに不可解なことがあった。
なぜなんだ!
なぜ三和川なんだ。
どうして三和川がこの状態になっている!
そんなのおかしいじゃないか、だって、
呪いを受けていたのは、向居カンナのはずだろう!?
なのにどうして向居カンナではなく、三和川ミナが?
ぼくにはそれが見当もつかなかった。
そして何もかもが分からないままに、事態は急転直下を始めたのだった。
*
「ぐあっ」
三和川に飛び掛られ、ぼくはそれを真正面から受けてしまった。
ぼくと三和川の体格はほぼ同じ。それは体重もそう変わらないということであって、押し合いになった場合、体重差がなければ、勝つのはより加速をつけている方だ。しかもこの加速と力は、明らかに常人の物ではない。
ぼくは背中から床に倒れ、三和川にのしかかられた。
ぼくの顔の真上に三和川の顔が来る。
夕方の保健室と同じ情景。
違うのは三和川の顔の相だけだ。
それは怒りの表情。
三和川は憎しみのこもった顔で、ぼくを睨んでいた。
動く暇もなく、両手を足の下に封じられ、身体が動かないように左手で右肩が押さえられる。それだけで肩が骨ごとつぶされるかと思った。すごい力だ。とても十五歳の少女に出せるものではない。
完璧にマウントポジションを取った三和川は、残った右手を大きく振りかぶり、まっすぐにぼくの顔面へと落としてきた。
轟音。
数キロのハンマーが落下したかと思うほどの衝撃が、床を揺らした。
「…………っ」
三和川の拳は、コンクリートの床にひびを入れていた。拳からも血が出ているが、骨が折れている様子がないのは、怪異の影響によって、身体の耐久度が底上げされているからだろう。トランス状態に入った人間は、全ての身体機能を無理矢理上げられるのだ。
なんとか首を捻ってかわしたが、音と衝撃が三半規管を揺さぶり、頭がぐらぐらする。たぶん頬もいくらか切れているだろう。
真上には変わらず三和川の顔がある。
攻撃をかわされたことによる怒りか、さらにその顔を歪ませているようだ。
突然、呼吸が出来なくなった。
首だ。
三和川は今度は首を絞めて来た。
コンクリートを割る拳だ。握力だって片手でぼくの首は絞め落とせるほどはあるだろう。
たしかにこの方が時間のかかるという点を除けばかわされる心配もなく、攻撃としては有効だろう。万力で首など絞められたことはないが、そうとでも言わないと表現できないような圧力が掛けられている。とにかく人間の力ではない。
「ぐ…………ぎ……」
ダメだ。何一つ抵抗できない。
優劣が完全に固定してしまった。
ちくしょう! 夏儀さんめ、このどこが「ほどほど」だ! 何一つする間もなく生命の危機に陥っているじゃないか!?
あと数秒も経たずにぼくは意識を失う。もしかしたらそれよりも早くに首の骨が砕けるかもしれない。
その時、目の前を横切ったのは、赤い塊だった。
重くて大きい塊が、ぼくの頭上を飛んだ。
「すまない!」
聞えたのは砂里先生の声。
次の瞬間には先生の振り切った消火器が、三和川の腹をぶん殴った。どれだけパワーが上げられても、ウエイトは変えられない。先生の腰の入った一撃は、三和川の身体を後方へ吹っ飛ばしていた。
「がはっ、ごほっ…………」
三和川の手がなくなり、肺が乱暴に呼吸を再開する。
危ないところだったが、まだ意識もはっきりしている。締められていた首もかなり痛むが、折れている気配はない。
なんとか起き上がると、消火器を身体の前に構えた砂里先生が三和川からぼくを守るように立ちふさがっていた。
「……ぁりがとうございました」
なんとか礼を言おうとしたが、まともな声になっていなかった。
砂里先生はこっちを振り向かないままに答える。
「礼はいいから早く立ちな! ここからはお前の本分だろう!」
「…………はい」
今度こそ、はっきりとした声で答えることが出来た。
そしてもう一度、ぼくは三和川の姿を見た。
吹っ飛ばされた三和川は、窓際の壁のところでうずくまっていたが、すぐに中腰の姿勢になると、そのまま下から見上げるようにしてこちらを睨んできた。
ぼくが前に出ると、砂里先生はその分後ろに下がってくれた。
本分。
たしかに、ここからはぼくの仕事だ。
『祓い屋』などと偉そうなことを言っていても、多少の経験があるとしても、怪異に対する対処法などほとんど知らない。
できるのは暴力くらいだ。
宿木都には、力による怪異をさらなる力でねじ伏せるくらいしか能はない。
それが例え頭が悪い方法だとしても関係ない。
今はやれる事をやるだけだ。
たとえ相手が向居カンナではなく三和川ミナになっていたとしても、それは変わらない。
ぼくは左手に意識を集中する。
それは自分の左手を裏返す感覚。
左手の中にあったもの取り出し、代わりに今ある部分を内へ。
五年前、ぼくは怪異に遭遇した。その際に左腕を失い、それ以来ぼくの左腕は人間とは別の物になってしまっている。
そう、ぼくの左腕は今や怪異の一部なのだ。
そしてこれは唯一の怪異に対する武器でもある。
目には目を。
歯には歯を。
怪異には怪異を!
「ぐぐぐぁぁっ――がっ!」
反転には痛みが伴う。
それは意識の差によって違ってくるが、ぼくの左腕の場合は完全に意識化のもとでの反転だ。痛みも半端ではない。
左腕に激痛が走る。爪を一斉にはがされ、指から腕にかけての、全ての間接という間接を同時に逆向きに曲げられるような痛み。肉という肉が全部剥ぎ取られ、神経を無理矢理引きちぎられるような苦しみ。歯を食いしばっても抑えきれないほどの苦痛が、一瞬で左腕を駆け回った。
その痛みが潮の引くように抜けていき、まっすぐ三和川と対峙できるようになった時には、ぼくの左腕はまったくの別物になっていた。
色は輝く白銀。全体がその色の毛で覆われている。
形は手というより、巨大な鉤爪(かぎづめ)に近い。全体的に一回り大きくなった左腕の先には、もとの二倍近くの大きさになった手があり、その一本一本に鎌のような爪が生えている。
直接、怪異本体にダメージを与えられる、“怪異殺し”の左腕。
ぼくはこれを『銀爪』と呼んでいる。
即座に左手を安定させると、ぼくはまず砂里先生に向って叫んだ。
「先生っ! ここは任せて、離れてください!」
先生は正面に警戒しながらも、すぐに踵を返した。
まだ椅子に座ったままだった向居の手を取って、部屋の後ろの方へと下がる。
「――――っ!」
三和川がそれを阻止せんと動こうとしたが、ぼくが前に出るとすぐにその前進を止めていた。
どうやら本能で、こちらがもはや一筋縄ではいかない相手である事を見抜いたらしい。
これまで見てきたことから分かる。今の三和川は人よりも獣に近い。確かにこの状態になるトリガーを引いたのは三和川自身の感情だったかもしれないが、戦闘においては本能に任せて身体を動かしている。
しかしその膠着状態も長くは続かなかった。
先に動いたのは、やはり三和川だ。
彼我の差はおよそ四メートル。さきほどは直線の動きで来たが、今度は違った。動いた方向は斜め。側面の壁へと跳び、次の瞬間にはぼくの右手側に跳びかかってきた。腕力だけではなく、脚力も同様に強化されているらしく、三和川の跳躍はすべて曲線ではなく直線。つまりものすごく早い。目で追うのがやっとの速度だ。
だがこちらも先ほどとは条件が違う。
どうやら変化したぼくの左腕に警戒して、ぼくの右側を攻撃してきたようだが、それは所詮本能的な判断。人間において、右側からの攻撃に正確な対処を出来るのは、むしろ左手なのだ。腹の前に横に構えた左手を、上半身を右へねじり、右手をどける動作をしながら、最短距離でこちらへと飛来してくる対象へと向ける。
上体を動かしたのがそのまま回避につながり、うなりを上げる拳が、寸前までぼくの頭があった場所を抜けた。その飛来音は、明らかに女の子の拳が作り出せるものではなく、あたっていれば頭も砕けていたことだろう。しかしそれもかわした。だが三和川の身体にかかった加速は消えない。だから三和川の身体は、ぼくが突き出した左手に正面から突き刺さる形になった。突き刺さる、と言ってもこちらが向けていたのは手の平だ。当たるのは腹のど真ん中なので、ちょうどみぞおちに当たる。両足に力を込めて、さらに左手を押し出すことによって、空中で三和川の身体がくの字に折れ曲がった。
「がはっ!」
そのまま吹っ飛びそうになる三和川の身体を、開いた左手を閉じることによって捕まえる。反転したぼくの左手は、三和川の胴体をちょうど鷲摑みが出来る大きさだ。
そして勢いが消えたところで、その身体を背中から思い切り床に叩きつけた。手足も同様に叩きつけられ、その衝撃で軽く跳ね返る。
「がっ!」
衝撃で肺の空気が漏れたところで、一気に体重をかけてその身体を床に押し付ける。
ぼくの左腕は、人間の物よりも一回り以上も大きいので、掴んだままにまっすぐに伸ばせば相手の手足がこっちの身体に届くことはない。
さきほどとは逆の形で、優劣が決定した。
しかも三和川にはやってくる助けもない。
あとはこちらが仕上げをするのみだ。
三和川は苦痛に顔を歪めながら、自分を押さえつけるぼくを憎らしげに睨んでいる。
しかし力を緩めるわけにはいかない。
ぼくはさらに左手に精神を集中する。
力の塊のような腕を、束ね、精錬していくイメージ。
そうすることにより、腕は光を発する。
銀色の、光を。
白銀の左腕が銀光を発しだすのに反応して、三和川がさらに苦悶の表情を浮かべた。苦しげにのた打ち回り、手足を無茶苦茶に動かして、そこから逃れようとしている。それもそうだろう。この光は三和川に取り憑いている怪異に直接にダメージを与えているのだから。
精錬された銀には、破邪退魔の力がある。
そしてぼくの左手は白銀の腕。
怪異でありながら、怪異を滅し、魔に属するものでありながら、魔を払拭する力を持つ。
異色の怪異。異端の怪異。怪異を殺す怪異。
それがぼくの左腕となった怪異――『銀爪』。
光を放つ左手の中で、次第に三和川の抵抗の力が衰えてきた。
手足は地面に投げ出されるような形になり、顔は疲労は見えたがそれでも安らかなものになってきている。どうやら三和川に憑いていた何かは、いくらかはそのなりを潜めたようだ。それでも念を入れてもう一分ほどそのままにしてから、やっとぼくは三和川の体を解放した。胴体を掴んでいた手を離し、その胴体をゆっくりと地面に横たえる。
手を離し終えると、ぼくは一度大きく息を吐いた。
まだ左腕を元に戻すことはしないが、行っていた集中は解く。
それは収束していた糸を、ほどく感覚だ。
後ろで見ていたであろう砂里先生と向居にも、事態が収まったことがわかったらしく、緊張していた空気が緩むのが感じられた。
そんな中、最初に動いたのは向居カンナだった。
自分を押しとどめていた砂里先生の手が下りたのを見ると、急いで三和川の下まで駆け寄っていった。そしてその頭をゆっくりと持ち上げ、力のない手を上から握る。
それをなんとかついた一段落として、ぼくと砂里先生はその光景を何も言わずに見ていることにした。
そのかいがあってか、三和川は思っていたよりも早く目を覚ました。
目を覚まして最初に、きょろきょろと周囲を見渡したところを見ると、どうやらトランス状態時の記憶は飛んでいるらしい。やはり体の節々が痛いようで、体を動かそうとする度に苦痛に顔が歪んでいた。怪異による耐久力の底上げがあったとはいえ、ダメージが完全になくなるわけではないのだ。
三和川は自分を抱く姉の姿を確かめると、ぱくぱくと口を動かした。向居に抱かれているので、その声は音にはなっていないが、どうやら姉妹の間には伝わっているらしく、向居がそれに応えて何度か頷いて見せた。
そして向居は三和川の体を静かに床に横たえると、自分は立ちあがり、先ほどまで向居が寝ていた部屋に入っていった。そして出てきた時には、小さな包みを持って出てきていた。
小刀でも入っていそうな、細長い袋。厚手の紫の布で作られていて、太い紐でその口の部分がしっかりと縛られている。
あれには僕にも見覚えがあった。
あれは、向居が唯一、火事の中から持ち出したものだ。
ぼくが向居を見つけた時も、あの袋をしっかりと胸に抱えていて、脱出の際にも絶対に離そうとしなかった。
どうやらあの袋は向居のものではなく、三和川の大切な持ち物らしい。
向居はまた三和川の枕元に膝をつくと、その袋を横たわる三和川に手渡した。
紫の袋が、姉の手から、妹の手に。
三和川は慣れた手つきでその紐をほどいていく。
中から現れたのは木箱だった。しかも外を包んでいた袋とはまったく異質な、それが作られてから経過してきた長い時間を感じさせる、今にも崩壊を起こしそうなふるい木箱だった。
この時点でぼくは嫌な予感を感じていた。
そして、こういう時に感じるそれは、的中率が無駄に高い。
三和川ミナの手によって、古ぼけた木箱のふたが、開かれた。
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
その異様な雰囲気は、確かに木箱の中から出ているもの。
嫌な気配がその箱から溢れ出していた。
闇、淀み、穢れ、死、人が怖れ、嫌う様々なものが溢れ、一瞬で部屋の中に満ちた。
その中にあったのは、腕のミイラだった。
乾燥しきった小さい腕。その指の長さ、毛の生え方からして、それが人間のものではないことはわかる。
あれは猿の手だ。
しかもそれはただの猿の手のミイラではない。
その猿の手の五本の指は、四本までが逆向きに折られていた。
それはまるで、何かの数を数えているように。