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同上

003

 

 ぼく――宿木都(やどりぎ・みやこ)が聞いた三和川ミナの話は、不思議なものであった。
 まるでどこかの民話にでも出てくるような、神様と無知な子供が出てくる物語であった。
 ただ一つの困ったことがあるとすれば、それはその話が本当にあった出来事だったということだろう。
 それは三年前の話になる。
 その年、ミナと、姉のカンナの両親が離婚をすることになった。
 事の発端は、どちらが先かも分からない不倫話だったけれど、最終的に二人は父と母の双方に引き取られ、離れ離れになることになった。
 けれど子供たちはそのことを異とした。
 離れたくないと。
 別れたくないと。
 しかし離婚の話は進み、二人が別々の土地へと引き離される日が近づいてきた。
 そんな時、カンナが言い出したのは、神様にお願いをするということだった。
 いかにも子供が思いつきそうなことだった。
 困った時の神頼み、というのことを考えるのはどんな小さくても同じなのだ。
 しかし二人の場合は、ただの神頼みではなかった。
 彼女達は、頼るべき神様を選んだのだ。
 二人の実家。三和川家は、その土地に古くからある、神社の家系だった。
 そして、神社の裏には、封印のなされた小さな洞窟があった。
 そこには神社の御神体がしまわれている、と二人は数年前に他界した、神社の神主であった祖父から聞いていた。同時に決して立ち入ってはならない、とも。
 幼い頃からその周りで遊んでいた二人は、その洞窟に、子供の身体がやっと抜けられるくらいの穴があることを知っていた。これまでは注意されていたこともあり、興味本位で入ることはなかったが、その日は決心を固めてその洞窟へ向っていた。懐中電灯を持って、逸れないようにしっかりと手をつないで。
 初めて入ったその洞窟は、湿っぽい場所だった。
 それが元々は水を引くための水穴だったらしいのだが、当時の二人にはそれを知るすべはなかった。
 懐中電灯をつけて奥へ奥へと、御神体を目指して進むうちに、二人は蝙蝠の群れに遭遇し、突然現れた黒い翼に驚いた二人は、洞窟の中で離れ離れになってしまった。
 いつのまにか、洞窟の別れ道に入ってしまっていたらしく、二人とも懐中電灯は持っていたが、会うことはできなかった。
 ミナは洞窟の中をさまよい、結局何も見つけられずに戻ってきたが、カンナは道を進むうちに、広い場所に出ることができた。そこには大きな空洞があり、洞窟の中に小さな地底湖があった。
 真っ暗な池。
 そこは光も流れもない。暗い水だけがそこにはあった。
 なんの音もしない、あまりに静寂すぎる場所。
 その静寂さは、十を過ぎたばかりの少女には耐えられるものではなかった。
 カンナは静かさへの恐怖のあまり、そこに石を投げ込んでしまった。
 ポチャン、と音を立てて水面に波紋が広がり――
 ――三和川カンナは神の怒りを買ってしまった。
 呪いをかけられてしまった。
 なんとかミナと再会した頃には、その症状は現れていた。
 いや、違うだろう。
 現象が現れていたのだ。
 呪いと言う名の、現象が。
 その日から、三和川カンナは音を失ってしまった。
 自分の身体から、声を始めとしたあらゆる音という音が出せなくなってしまい、また彼女は触れているあらゆるものからも、音を消し去ってしまうようになった。
 それこそが、カンナにかけられた呪いだった。
 二人が入った洞窟。そこには音無しの池という、一つの神の座があった。
 静寂を好む神のおわすところが。
 その場を騒がせた罪を負い、カンナは呪いを受けてしまった。
 それが“音無しの呪い”。
 その日から、三年の月日が過ぎていた。

 

 

 腕時計の針は、もう午後九時を指している。

 こんなに遅くなっているとは思わなかった。保健室で目を覚ました時点で、だいたい夕方くらいだったのだろう。それでまた眠らされて、話を聞いて、それだけのことが放課後に入ってからの五時間で行われたとしたら、どうやらぼくは、ずいぶんと濃密な時間を過ごしてしまったらしい。
 体育倉庫から解放されたぼくは、今は一人、校門への道を歩いている。
 二人の過去を聞かされ、その後でぼくは脅迫を受けた。
 絶対にこのことを誰にも話さないこと、そして今後一切私たちに関わらないこと、それが向こうの要求で、その後で言われたのが、もしもこの約束を破った時の話だ。
「その時は君に、お姉ちゃんと同じ呪いを背負ってもらうことになるから」
 三和川ミナはそう言って、ぼくが頷くのを見ると、手錠を外してぼくを解放した。
 監禁から脅迫に至るそれまでの過程は、実に手馴れているように見えた。
 おそらくこうして発見者を脅したのは、今回が初めてのことではないのだろう。あの時に保険医の先生が保健室にいなかったことも、それならば頷ける。
 人間一人分の質量を隠し切るのは、それほど簡単なことではない。
 ぼくの時の様な、不幸な偶然もまたあったはずだ。
 二人は、その時にいつもこうしてきたのだろう。
 確かにあんな超常現象的なものを見せ付けられれば、たいていの人は驚き、混乱する。そこに、この呪いをお前にもかけるぞ、と脅されでもしたら、もうしゃべれるどころか、近づこうとすら思わないはずだ。
 しかし、それは脅迫する相手が普通の人ならば、の場合の話だ。
 あいにくだが、ぼくは普通の人間ではない。
 あんな現象を見た後でそう言えるほどに、ぼくは普通とは異なっている。
 そして三和川の最後の言葉が嘘であろうことも、ある程度予測はついていた。
 二人は先に消え、少し時間を置いてからぼくは体育倉庫の前を離れた。
 あんな話をされた後で、一緒にいるのは気まずいから、ではない。
 別の理由で時間を外す必要があったのだ。
 あの人に会うためには、三和川たちがいることは、ぼくにとって都合が悪い。
 そのことは向こうの方でも承知しているだろう。こうして一人になっていれば、向こうの方から接触してくるはずだ。
 必要な時に現れる。けれど必要以上には姿を現さないのがあの人だ。
 噂をすれば影。
 すでに閉まっている校門の前に、一つの影を見つけた。
 ぼくの姿には当に気づいているのだろうが、なんの反応もよこさない。
 校門の前まで辿り着いて、やっとその顔を見ることが出来た。
 闇に溶け込む黒青色のスーツに、短い髪、細長い糸目に縁なしのメガネをかけた、細身の男性。
 そこにいたのは坂上学園の日本史教師、凪夏儀(なぎ・なつぎ)先生であった。
 夏儀さんは見かけどおりの柔らかな物腰で、ぼくに挨拶をしてくる。
「やあ。宿木くん」
「こんばんは。夏儀さん」
 普段の学校では、ぼくは凪先生と呼んでいるが、今のような時はそうではなく、夏儀さんと呼んでいる。まだ高等部に入ってから半年しか経っていないが、夏儀さんとぼくはそれ以前からの知り合いだった。それでだ。
 夏儀さんとの縁は、五年前からのものだ。付き合いは、それ以来続いている。十歳の時、ぼくが夏儀さんに助けられたことが、その始まりだった。
 《茜色の魔術師》。
 初めてあった時、夏儀さんはぼくにそう名乗っていた。
 あの時は、数年後の自分がどんなものになっているかなど、考えたこともなかった。
 なぜ今、夏儀さんがこんな時間に、この場所にいるのか。
 そんなことは聞くまでもない。
 ぼくが、――宿木都が怪異と出遭ったから。夏儀さんがここにいる理由は、それだけだ。
 夏儀さんはもたれていた校門から背を離し、腕をポケットに入れたままに、ぼくと対峙する。
「半年ですか。今度はまたずいぶんと空いたものですね。間隔が」
 夏儀さんの言葉に、ぼくは無言で頷く。
 半年。それはつまり高校に入学して以来、初めて、ということになる。
 どうりでぼくも対応が遅れるはずだ。考えてみれば、それほどぶりのことだったのだ。
 トラブルに巻き込まれるのは。
 怪異と、出遭うのは。
「ふむ。三和川ミナと、向居カンナですか。高校最初の事件としては、ほどよいものかもしれませんね」
 夏儀さんは、自分で自分の意見に納得するように頷きながら言った。
 ぼくは夏儀さんの言葉の意味を図りかねたので、訊いてみた。
 なるべく希望的観測で。
「ほどよく、簡単なんですか?」
 しかし夏儀さんは頭を振る。
 そして笑顔で言った。
「ほどよく難しくて、ほどよく危険、ついでにほどよく命がけ、といったところです」
 ぼくの予想は逆もいいとこだった。
 夏儀さんは嘘も言わないが、気休めもまた言わない人なので、言っていることは例外なくこれから起きる事実なのだ。
 聞かされている方としては、何一つ笑えない。
 夏儀さんが、三和川たちのことをなぜ知っているのかは、聞こうとは思わない。いつものことだし、説明すること自体がきっと難しい。
「どうですか。宿木くん。久しぶりですけど、同居人の調子は?」
 夏儀さんは、ぼくの左腕を見ながら言った。
 一瞬、見られた左腕が反応したような気がしたが、確かめようとした時には、普段の状態に戻っていた。
「ええ。おかげさまで、何事もなく」
「そうですか。それはよかった」
 これにも夏儀さんは笑顔で答えた。
 けれど、それが作り物の笑顔であることは、ぼくは知っている。いつも教室で見る笑顔は、まったく同じものでありながら作り物ではないというのに、今、この時の表情は、仮面のように作り物めいているのだ。
 その雰囲気はとても人間とは思えない。
 目の前にいるのに、夏儀さんの立つ場所だけが違う世界のように思えてしまう。
「それで、夏儀さん……」
 ぼくが言いかけたところで、夏儀さんは既にぼくの方にその手を伸ばしていた。手には、一枚のメモ用紙が握られている。
 見るまでもなく、その中身には予想がついた。
「三和川ミナと、向居カンナの住所と電話番号です。二人は同じところに住んでいるので、住所は一つしか書いてありません」
 そう言って、夏儀さんはぼくにメモ用紙を手渡してきた。
 ぼくはその紙を、手を伸ばして受け取る。辺りは暗かったが、そこには確かに住所と電話番号が一つずつ書かれているのを読み取ることは出来た。
 まだ事は始まったばかりだというのに、あいかわらずの手際の良さだ。
 彼にできないことは何一つとしてない。
 過去も、未来も、現在も、思うが侭で、原始も結末も余すところなく知っている。
 彼は全知全能という四字熟語を体現した存在なのである。
 そんな夏儀さんがいつも行うことは、言ってしまえば物語の省略である。
 ぼく程度の情報手段でも、クラスメイト二人の住所と電話番号を知ることはたやすい。しかしそれを調べるのには、いくらかの時間を要する。逆を言えば、時間さえあれば難しいことではない。夏儀さんは、そんな手間の時間を省略してくれる。
 夏儀さんがなぜそんなことをしているのかは、ぼくも正直なところよく分かっていない。
 聞いた事はあるが、その時は、早く続きが見たいからですよ、とだけ夏儀さんは言っていた。未来も、結末も、オチさえも知っている人がそんなことを言う理由。そんなものはぼくには到底考えられるものではなかった。
 ぼくがメモ用紙の内容を確かめたのを見ると、夏儀さんは話を再開した。
「さて、すぐに動くのですか? 宿木くん、少々疲れているようにも見えますが」
「万全じゃないのはいつものことですよ。それに、時間をおいて好転する類のものではなさそうですから」
「君もまた手馴れてきたね。話し方がまるで歴戦の勇士のようだ」
 夏儀さんは、ぼくを褒めるようにそう言った。
 けれど夏儀さんのその言葉に、ぼくは嬉しさを覚えることはなかった。
 そうか。ぼくはいつの間にか慣れを感じていたらしい。
 こんな異常な出来事に対して。
 慣れることと、軽んずることは違う。
 この世界では、油断は即命取りなのだから。
 ぼくの思考を読みでもしたのか、夏儀さんがまた目を弓にしていた。
 そして、何の脈絡もなく、その一言を言った。
「――――『名は、体を表す』」
 それを言い終えると、夏儀さんはさよならの挨拶だけをして、踵を返し、夜闇の校舎に向けて歩いていった。黒青色のスーツは、すぐに闇に溶け込んで、見えなくなってしまった。
 今のがなんだったのかは、ぼくには訊かなくても分かる。
 あれは、事件の度に一度だけくれる、夏儀さんなりのアドバイスなのだ。
「名は、体を表す」
 一人になって、ぼくも一度その言葉を口にしてみた。
 その格言は、対象の名前は、対象の実態そのものを示す、という意味の言葉だ。
 名前は誰にでもあるものであり、だからこそそれは、そのものの生き方や在り方に深く関わっている。
 そういえばぼくの名前についても、以前に夏儀さんが言っていたことがあったのを思い出した。
 あれは、それこそ初対面の時、小さなぼくが初めて夏儀さんに名乗った時のことだった。
「宿木くん。宿木都くん――か」
 夏儀さんは、何度か口の中で噛み締めるように、ぼくの名前を口にしてから、呟くように言っていた。
「宿木、やどりぎ……またの名を寄生木とも言う。そして都。これは人の集まる場所、所、という願いが込められている……」
 小さなぼくは、それはどういうことですか、と訊いた。
 そんなぼくの顔を楽しそうに眺めながら、話を結ぶ形で、こう言ったのだ。
「幸いだ、って事だよ。君はとても幸運なんだ。いや、君の場合はこれからか」
 少しだけ間をおいて、
 凪夏儀は、伍葵に住まう茜色の魔術師は言っていた。

 

「君はとてもついているのさ。そして憑かれやすいんだよ。憑かれた者たちは君を闇夜の灯火のように感じ、君の下の集まるだろう。宿木くん。君も一人の世界の中心なのさ」

 

 と。
 その頃のぼくは、夏儀さんの言った言葉の意味を、少しも理解できていなかった。
 今でさえ、ぼくはたぶんその半分も理解してはいないのだけれど。


004

 

 ぼく――宿木都(やどりぎ・みやこ)が三和川ミナから向居カンナのことを聞いたのは、二ヶ月ほど前の図書倉庫でのことだった。
 その日、昼休みのその場所にいたのは、図書委員であるぼくと、図書館の常連であった三和川ミナの二人だけだった。
 三和川と向居は、いつも弁当を手早く食べ終えてから、昼休みの残り時間のほとんど図書館で過ごしていた。図書委員の立場から見れば、彼女たちは、いつも隅の席で黙々と本を読むか、自習をしている模範的な図書館利用者だった。二人の秘密を知ってしまった今ならば分かるのだが、もともと静かであって、そこにいる人間が、みんな音を出さないように気をつけているあの場所は、二人にとっても警戒レベルの下がる場所だったのだろう。
 そんな三和川に対しての印象が変わるのに至ったのは、一度、彼女と図書館の中で口喧嘩というか、大論争を繰り広げてからだった。論争の議題については、もはや思い出したくもないのだが。
 同じクラスだから分かるのだが、向居カンナは月に五、六日のペースで学校を休む。なんでも中学時代にかかった病気のせいと聞いていた。
 向居が休んでいる日は、三和川はいつもより気楽そうに見えた。いつも向居を守るために気を張っていたのだろう。だから向居が学校を休んだ時は、張るものがなくなって緩んでしまうようだった。
 三和川が昼休みにここ、図書倉庫を訪れるのは、向居が学校を休んだ日の、昼休みか放課後のことだった。
 その日も、ぼくはカートに乗せられている未整理の本を片付けていて、三和川は端っこに置いたパイプ椅子に座っていた。
 いつも会話はどちらともなく始まるものだったが、その日はぼくから三和川に話しかけていた。
「なあ、三和川」
「なにー?」
「三和川って、向居と仲がいいのか? いつも一緒にいるけど」
 一緒にしかいないけど、とは言わなかった。
 三和川が少し時間をおいて、ぼくの質問に首肯した。
「……うん。でもどうしたの? 向居さんのことが、気になるの?」
 棚越しに聞こえてくるその声には、わずかに躊躇いが混ざっているように感じた。
 やはり向居の事に関しては、警戒を抱いているのかもしれない。
 だからぼくは、なるべく軽く受け取られるように言った。
「いや、そういうのじゃなくてさ。ただの疑問だよ」
「そう。……付き合いが長いからね。幼稚園の頃からなんだ」
 三和川も安心したのか、普通の調子で答えてくれた。
 話によると向居と三和川は、どうやら古い付き合いということらしい。
 本を持って、次の棚に移動すると、三和川の姿が視界に入った。
 向こうもこっちに気づいたようだったが、話はそのまま続けられた。
 それにしても、それほどの付き合いならば、「向居さん」と呼んでいるのは、少し余所余所しいのではないだろうか。その年代からの友達だったら、いまだに子供っぽい呼び名で呼び合っている連中は珍しくない。いや、だからこそ恥ずかしがって、わざとそう呼ばせているということもあるのかもしれない。その気持ちならば、ぼくにもけっこう分かる。
 ぼくは特に感想もなく、
「そうなんだ」
 と言っておいた。
「あ、都ちゃん。今、“幼稚園”って単語に反応したでしょう!」
「してないよっ!」
 ぼくは全力で否定する。
 なぜそこに注目するんだ!
 もしかしてトラップだったのか? しかもちゃんとかわしても手動で起動できる、遠隔操作のトラップだ。
 ノってきたのか、三和川がさらにそこを突っ込んできた。
「大声を出すところが逆に怪しいですな~」
「大声ぐらいで怪しまれてたら、絶叫レポーターなんてみんな廃業だよ!」
「あんなやつら全部クビになればいい」
 と、三和川は吐き捨てるように言った。
 何かレポーターに恨みでもあるのだろうか。
「みんな首を吊ればいい!」
「怖っ! 恨みすぎだろうがっ! いったいどんな恨みがあるんだよ、レポーターって職業に!?」
「私、昔っから音楽の授業苦手でさ。リコーダーってあったでしょ。小学校で、男の子が好きな女の子のなめるやつ」
「その認識はかなり間違っているがな」
 そんな暗黒な小学校は嫌だ。
 しかしそんなところを気にすることもなく、三和川は話を続けた。
「あれが中でも一番苦手でね。いつも居残りさせられてたの」
「へえ。音楽が苦手なんだ」
 少し意外だった。そう思ったのは、人との交わりはほとんどしない三和川だったが、学校での成績はいつも上位に入る優秀ぶりだったからだ。
「意外だった? まあ完璧超人にも敗北はあるのよ」
 完璧超人って自称しやがった。
 自信家なのにもほどがある。
 そして例えが『筋肉マン』なんですね。三和川さん。
「はあ、何故負けてしまったの……ケンダマン」
 コアな趣味をお持ちのようだった。
 いや、話題が変わってるぞ。
 そのことには自分でも気づいたらしく、三和川はすぐに話を戻してきた。
「それで、リコーダーとレポーターって、なんだか発音が似てるじゃない? だから嫌いなのよ」
「恨む筋合いゼロじゃんっ!? その上強引過ぎるだろっ!」
 というか無茶苦茶だった。そんな理由で嫌われる方がかわいそうだ。
 さらに突っ込みを入れようとしたところで、ふと、三和川の表情が変わったのに気づいた。
 何かまた違うこと、けれど真剣なことを話そうとしているようだったので、ぼくは静かにして三和川が話し出すのを待った。
 遠くを見るような目をして、三和川は話し始めた。
「その時はいつもカンナちゃ、……向居さんが一緒にいてくれた。彼女、音楽はすごく得意だったから。歌だってクラスの誰よりも上手だった」
「……そっか」
 それはきっと病気になる前の話だろう。
 向居カンナは中学校の頃にかかった病気のせいで、声を失ったと聞いている。
「でもね。向居さんはそれだけじゃなかったんだよ!」
 暗い話になるのかと思われたが、それとは逆に三和川のテンションは上がってきた。どうやら話は別のところへ向かうらしい。
「国語も理科も社会も、みんな出来たんだ! どの科目でもクラスで一番だった。掛け算割り算が最初に出来るようになったのだって、向居さんだったもんっ」
 三和川はすごく楽しそうに語っている。
 小さい頃の思い出というものは、その多くが美化されるものだが、それでも三和川にとってそれは価値のあるものなのだろう。
「クラスの人気者だった! あたしはいつも向居さんの背中を追いかけてた。小学生の頃は体がちっちゃかったからさ。いつも守ってくれてたんだ」
 そう言う三和川の身長は、確かにクラスの女子の中では高い方だろう。幼い頃に小さかった子供は、伸びる時には一気に伸びると聞いたことがある。ちなみにぼくは男子の中では平均身長ど真ん中で、三和川と同じくらいの高さである。
 それにしてもそれはまた意外な話だった。
 後ろで守ってもらっていた。それでは今とまったくの逆の状態になっている。
 悪いことを言うようだが、今の向居カンナからは到底そんな力強い姿は想像できない。
「中でもやっぱり音楽が一番好きだったんだ。歌を歌うのがなにより好きだった」
 先ほどからずっと楽しそうに向居のことを語っていた三和川だったが、ここにきてその口調がわずかに鈍くなり、その表情にも影が差し始めていた。
 口が重たそうになっているのが分かる。
「だから向居さん。病気をして、声が出せなくなった時は、すごくショックを受けてた。ふさぎこんで、誰とも会おうとしなかった。私にさえ、それは同じで……」
 昔を思い出しているのだろう。三和川の口調は、力のない弱弱しいものになっていた。
「結局、そのショックで一年学校を休むことになって、留年して、私と同じ年に小学校を卒業したの」
「え、どういうことだ? 留年したら、いっこ下の学年と卒業するんじゃないのか」
「ああ、言ってなかったね。でもみんなには秘密だよ。向居さんは私たちより一つ上の、十六歳なの。小学校は生徒数の少ないところだったから、学年をまたがって一つのクラスを作ってたから」
 そういうことか。
 確かに、自分の一番好きだった音楽が、不幸な病気で奪われたりしたら、それほどのショックを受けるのは当然だろう。しょせんは子供のことだ、というのはおかしい。子供は大人と違って持っているものが少ない。だからそれが失われた時の反動は、大人の比ではないのだ。
 その気持ちは分かる。
 気休めではなく、ぼくだからからこそ分かるのだ。
 痛いほどに。
 心が、痛むほどに。
 三和川は顔を上げて、話を続けた。
「だから決めたの。これからは、私が向居さんを守るんだ」
 三和川は膝の上に乗せた手を強く握る。
「カンナちゃんに恩返しをしよう、って」
 決心の言葉を口にした三和川の顔には、普段の力が戻っていた。
 それが三和川の誓い、だったわけだ。
 この日、初めてぼくは三和川に自分に近しいものを感じた。
 いや、最初から感じていたのだろう。だから前からなんとなく気になっていたし、打ち解けることもできた。そしてだからこそ、あれほどの口喧嘩をしてしまったのだろう。
 ぼくも自分の手を見る。
 三和川のように握っていないそれは、けれど昔に三和川と同じように決心を抱いた手だ。
 五年前の、あの夏の日に。
 友達に誓った――約束。
 遠くで予鈴が流れているのが聞こえてきた。
 あと五分で昼休みは終わる。
 ぼくと三和川は、一度顔を見合わせ、そろって図書倉庫を出た。
 まだ雨の降り止まない、梅雨の時期のことであった。

 

 

 あの後、校門で夏儀さんと別れてからぼくは市内の住宅地に向かっていた。
 『山吹町古屋敷20 ガーデン山吹 101号』。
 夏儀さんから渡されたメモにはそう書かれていた。
 学校から歩いて半時間ほどで、山吹町にはついた。
 五つの同じ造りの建物が並ぶ、テラスハウス。ガーデン山吹は、そんな今風のアパートの一つだった。学生二人で住むには、多少でなくても豪華そうな場所だ。
 もしもこれを見たのが、今でなければ、素直に驚いたり羨んだりしたかもしれない。
 それはつまり、今はそんなことはしない、ということ。
 いや、それどころではないのだ。
 ガーデン山吹の一つ、位置的に見ておそらく102号であろうその建物から、火の手が上がっていた。
 野次馬も消防車も来ていないところを見ると、まだ出火して間もないのだろう。
 しかし、問題はそれだけではなかった。
 火が!
 風向きのせいで隣の建物から出た火が、さっそく風下の建物に移りだしていた。
 風下にあるのは101号だ!
 ここは手に持ったメモに書かれた場所だ。
 しかも、ここには助けを呼ぶ声どころか、その音さえも聞くことのできない人間がいるのだ!
 躊躇をしている時間はない。
 ぼくは何かを考える前に、目の前の建物に飛び込んでいた。


005

 

「“音無しの呪い”ねえ」
 くわえていた煙草を離してから、この病院(?)の医者である、砂里豹子(すなざと・ひょうこ)先生は言った。
 短くなった煙草を、既に捨てられた残骸で、白いウニのようになっている灰皿に押し付け、砂里先生は鋭い目で部屋の端にある丸椅子に座るぼく――宿木都(やどりぎ・みやこ)を睨んだ。
 別に本当に睨んだわけではないだろうが、その肉食獣が獲物を威嚇するような瞳は、見るだけである程度こちらを萎縮させる力を持つ。砂里先生は、二十代半ばの厳しい印象を持つ女性だ。艶やかな黒髪は首元で綺麗に真横にそろえられ、タイトのスカートから伸びた足は、しなやかであって長く、サバンナを走る狩人を髣髴とさせる。これはこれで『名は体を表す』なのだろうか。ポリシーとしていつも着ている白衣は、すすで汚れたぼくたちに触れたために、わずかに黒ずんでいる。
 ぼくがこの場所を訪れたのは、砂里先生が表立った場所では治療の出来ないような人間を診る医者であったからだ。医師免許を持たない、非合法の医者。いわゆる闇医者である。歳は若いけれど腕は確かなので、先生を頼る人は少なくない。今ぼく達がいる四階建てのビルを丸ごと所有しているところから見ても、それなりに儲かっているらしい。
 そのビルの四階の全てが、砂里先生のオフィス兼病室である。ビル自体の造りが古いために、どのドアも立て付けが悪く、動かすたびにギイギイと音がする。それどころか開かない物まであるが、それでも内部がいつも清潔に保たれているのは、やはり先生の医者としての性格の故だろう。ぼくと先生はそのリビングにいて、少し間隔を空けて先生は椅子に座り、ぼくは壁に背を預けている。
 ガーデン山吹で火事が起こり、ぼくはすぐに三和川ミナと向居カンナの住んでいるはずの101号へと飛び込んだ。幸い玄関は開いていて、家の中に走りこむと、窓際の部屋で向居カンナが倒れているのを見つけた。他の部屋を探しても三和川の姿がなかったので、彼女はちょうど出かけているところなのだろうと判断し、向居だけを家から助け出した。家の外には消防車が来て、野次馬が集まりだしていたので、ぼくは裏口から向居を背負って外に出た。それは向居カンナが、病院に運び込まれたりしては困る身体であることを知っていたからだ。向居の身体にかけられた、触れるものや、その身体自体から一切の音を発することのできなくなる“音無しの呪い”は、普通の世界ではありえることではない。つまり、人目に触れては困るのだ。三和川に聞いた話では三年近くこの状態を継続しているのだから、もしかしたら専門の医者か何かがいるのかもしれないが、そんなものは知らないし、探している暇もない。ぼくはすぐにタクシーを捕まえ、隣町まで向かった。伍葵市で一番の歓楽街のある町、琥珀町。その裏町の小さなビル。そここそが、砂里先生の経営する病院だったのである。
 ぼくと砂里先生は数年前のとある怪異絡みの事件からの縁であり、それ以来この手の患者はいつも先生のところに連れてきていた。
 向居は汚れていた制服も脱がされ(ぼくが脱がせたんじゃないぞ!)、今は砂里先生の適当な私服を着せてもらってから、隣の部屋のベッドの上で寝息を立てている。
 安らかな寝顔だった。助け出した時は、あんなにも苦しそうにしていたのに。
 診察は終えたらしく、煙草も一本吸い終わった落ち着いた様子から見ると、どうやら問題はなかったようだ。
 さきほどまで黙らされていたぼくだったが、そろそろ向居のことを訊いてみることにした。
「砂里先生。どうですか? 向居の身体は」
「おかしいよ」
 なんの躊躇いもなく、こちらの言葉を斬り捨てるように砂里先生は言った。
「おかしくないわけがないだろう。音がしないんだぞ、音が。これがおかしくなかったら、ラップ現象なんざ台所を使うたびに起こっているだろうよ」
 砂里先生は苛立たしげに、まくし立てるように言った。
 乱暴に机の上の煙草を手に取ると、一本出して口にくわえ、すぐさまライターで火をつけた。そのライターが銃の形をしていて(往年のピースメーカーだ)、それを構える姿はやたらと砂里先生に似合っていて、かっこいい。
 砂里先生は、煙草をくわえたまま、机の上に乱雑におかれていたカルテを手に取った。
「まあ、その点に目を瞑れば……悪いところはない。過剰の一酸化炭素を吸いこんだってわけでもなさそうだ。大きな火に驚いて気絶したってところだろう」
 砂里先生はすぐに持っていたカルテを、ぼくに渡した。
 しかし何やら外国語(英語ですらない)で書かれているので、ぼくにはまったく解読できなかった。
「だが、そのおかげでずっと頭を低くしていられて、煙を吸わなかったんだから。運がいいんだろうよ。この子は」
 やはり読めないことはわかっていてくれたらしく、そこに書いてあるであろう内容を、砂里先生は話してくれた。
「それでも火事に巻き込まれいてる時点で、運は悪いのか。『不幸中の災い』ってとこだろうよ」
「めちゃくちゃついてないですね。それ」
 ぼくは先生の間違いに突っ込みを入れていた。砂里先生は外国育ちなので、さっきみたいに、日本語が時々おかしなものになることがあるのだ。
 けれどそんなぼくの言葉は軽く無視され、そして先生は愚痴でも言うかのように、話を続けた。
「まったく……。心臓の音も聞こえないし、呼吸音も他の体内音も一切しない。患者の意識もないから触診しかできない。おかげでやたらと手間取ったよ。あー、しんどい。ミヤ、肩揉みな」
「……はい」
 ぼくは素直に従い、砂里先生の後ろに回る。肩揉みは案外得意な方だった。
 しばらく無言の奉仕時間が流れた。
 時計を見ると、もう夜の十一時を回っており、当然ながら寮の門限などとっくの昔にオーバーしている。浅黄寮はその古さ故に防犯設備などは何一つないが、寮の守護神であるスーパー寮母さんがいるので、こっそり侵入とかは不可能なのだ。今のうちに反省文の内容を考えておくのも、ありかもしれない。
 砂里先生が、肩揉みを始めてから三本目の煙草を吸い終わったところで、呟くように言った。
「実際な。なんなんだ、アレは」
 アレ、というのはやはり向居の身体のことだろう。今に至るまでに、向居の“音無しの呪い”については、あらかたの事情を先生には伝えていただが、先生はそれで納得している様子ではなかった。
「だから“呪い”なのでは?」
「“呪い”ねえ。呪い呪い呪い……そんな一言で、なんでも片付けてるんじゃない。あたしはそんな簡単に思考を放棄できるほど、たやすい頭の構造をしてないんだよ」
 砂里先生は苛立った口調で言った。新しくくわえた煙草を、噛み千切らんばかりの形相になっている。
 しかしこれもいつものことか。
 ぼくも砂里先生の思考に合わせて、考えてみる。
 今まで見てきた、向居カンナの“音無しの呪い”によって起こった現象は二つ。一つは、心臓音や声といった、向居本人から出るはずの音が一切聞こえないということ、もう一つは花瓶やぼく自身の時のように、向居に触れているものの音も、同様に聞こえなくなってしまう、というものだった。
 音がない、と一言で言っても、発せられないだけであって、向居には周囲の音は聞こえてはいる。
 何度か三和川が向居に話しかけているのを見たことがあるが、特に手振りがなくとも反応していたころからそれは確実だ。
 これらから分かることは、向居の身体に触れる“音”自体が消えているというわけではない、ということだ。音は空気の振動なので、それをかき消すということならば、触れているものだけ、と限るのは難しいだろう。もしそうならば、音は向居の耳、その鼓膜に触れた時点でかき消されてしまわなくてはならなくなる。
 つまり、向居の周囲の音は、発せられないのではなく、他者に認識できない、ということになるのではないだろうか。
「どうだ。少しは考えたか?」
 多少の考える時間を与えた後で、砂里先生は訊いてきた。
 ぼくは、はいと答え、さきほどの考えをある程度まとめてから砂里先生に話した。それを聞き終えてから、先生は一度頷き、言った。
「そうだな。だいたい私も同じようなことを考えていたよ。他にも無音空間、というのならば真空中ならそうだな。もしも真空の膜が、あの娘の身体を常に包んでいるというのならば、音の出入りが一切なくなってもおかしくはないだろう」
 こういう話をしている時の砂里先生は、とても知的な人に見える。医者をやっているくらいだから(しかも、違法の闇医者だ)実際、頭はいいんだろうけど、普段から言動が暴力的だったりするので、あまりそういう面は見られないのだ。
 やはり考えることはかなり違う。考えもしなかった新しい見解に、ぼくは感心して頷いていた。
 しかし砂里先生はすぐに不機嫌そうに顔を歪めて、
「阿呆」
 と、ぼくを叱った。
「おかしくないわけないだろうが! 真空に包まれたりしたら、たしかに音は通らないが同時に空気だって通らない。中のやつはすぐに死んでしまうよ。それにそんなものが本当にあったりしたら、触れた時にすぐ気づくし、触れているものからも同様の現象が見られる、ということに説明がつかない」
 砂里先生は一気にその説明をした。
 もう少しでついていけなくなるかと思ったが、なんとかぼくにも理解することができた。
「あたしが思うに……」
 砂里先生がさらに真剣な顔になり、話を続けた。
「あれは、周囲の認識対象の聴覚に影響を及ぼす催眠効果ではないだろうか」
「…………?」
 何か難しい単語が羅列された。
 どう見ても、言われていることがわかっていない顔をしているだろうぼくを見て、砂里先生は説明を再開した。
「ミヤ、お前も言っただろう。向居カンナの“音”は、発せられないのではなく、他者に認識できないだけなのでは、と。それだよ。自分を含めた周囲の人間に、“向居カンナ自身、または彼女の触れているものから発する音は聞こえない”という内容の暗示を、向居カンナが無意識に出しているとしたら、まあ、納得はできるし、説明もつく」
「でも、催眠と言っても、そんなにうまくいくでしょうか? それだと聞こえていないって思い込まされても、実際は聞こえているわけですから」
 素人丸出しの意見だったが、それは正直な感想でもあった。
 五円玉を使うもののような催眠術はテレビなどで見たこともあるが、あんなものはサクラを仕込めばそれだけのことなので信じられないのだ。
「しょうがないな。では、一つ実践してみよう。ミヤ、手を出しな」
 言われ、ぼくは右手を砂里先生の方に伸ばした。
 すると先生がぼくの方に近づいてきて、伸ばした手首をつかんで持っていった。
 自分の、胸に。
「っ!?」
 すぐに手は離され、手の平にあった感触は、もう分からなくなった。
「どうだった?」
「え? いや、その、柔らかというか。でも一瞬だったので……」
 あわてているぼくの反応を、楽しむように眺めた砂里先生は、それこそ愉快そうに、違うよ、と言って、その目を足元へと向けた。
 ぼくもそれを追って、視線を傾ける。
 そして、それを見ながら砂里先生は言った。
「あたしはね。あたしのハイヒールで踏まれたつま先はどうだった、って訊いたんだよ」
 ぼくの足、土で汚れたスニーカーの先に、砂里先生のハイヒールのかかとが突き刺さっていた。しかも、モロに小指の位置だ。先生はすぐに足を離してくれたが、その痛みはまだ残っている。
 先生の言ったとおり、たしかにぼくは、手の感触に意識を集中していたために、足の痛さに気づかなかった。神経の集中している指先であるにも関わらずだ。五感の一つをごまかされたのだ。
 実践されてしまうと、触覚で出来たことが聴覚で出来ない道理はない。これが催眠効果というやつの一種なのか。
 ぼくが納得したのを見て取った砂里先生は、説明を続けた。
「分かったか? これが一種の催眠効果だ。他者の認識の方向性を誘導して、意識の空白を作る」
「……意識の、空白?」
「ああ。といってもこいつは、あたしの闇医者仲間の友達に聞いたものなんだけどな」
 押し売りってやつさ、と砂里先生は笑った。
 その友達とやらも、やはり砂里先生同様、裏家業の人なのだろう。なるべく会うことがないことを祈りたいものだ。とりあえず押し売りではなく、受け売りであることは訂正しておいた。
「あたしにできる考察はこんなものだろう。こんなことが分かったところで、何かが解決するわけでもないんだけどな」
 砂里先生は、そう言って話を締めた。
 話を聞き終え、やはりぼくは感心させられていた。
 やはり医者の本分なのだろうか。こんな怪奇現象にさえ、現実的な視点から、それこそメスを入れている。ぼくのような子供にはできないことだ。怪異を、幼いころに見せつけられたぼくのような人間には。
 しかしここまでの会話が徒労に終わることは分かっていた。
 どこまで行っても怪異は人の考えの及ぶ存在ではない。
 そのことは先生も分かっているはずだ。それでも言わずにはおられなかったのだろう。人の性分、というやつだ。
 もう話はないのか、と思われたが、砂里先生は自分の椅子の上で、新しい煙草に火をつけながら、それにしても、と呟くように言った。
 ぼくはすぐにそれに耳を傾ける。
「これで四人目だぞ」
 砂里先生は、はっきりとした声でそう言った。
「はい?」
「ミヤ。お前がうちに運んできた患者の数だ。それも、おかしな客ばかり!」
 砂里先生が強い調子で言う。
 そうして砂里先生は、たまっていた鬱憤を発散するように、話を続けた。
「最初は、……そうだ。最初はたしかにあたしだった。あの“魚”の時だ。たしかにあの時、お前には世話になったし、だからこそ今までも、こうしてお前の運んでくる患者は診てきた!」
「しっかりお金は採ってますけどね」
「当たり前だ! 仕事と私情は別物。『時と場所なり』だ!」
「ケース・バイ・ケースなんですね」
 正解は『時は金なり』、だ。
「あれからというもの、これで四人だぞ。四人っ! “ネジ”のガキに、“三角”女に、この前のはたしか……ああ、もう思い出したくもない!」
 砂里先生は首を振りながら言った。
 一番最近のこと、となると半年前のことだろう。
 あの“蛇”の時だ。
 時間を弄ぶ時計蛇。
 時の停まった少女。
 たしかにあれはぼくの知る中でも、一番の難題だった。巻き込んでしまった砂里先生には、思うところがないとは、とてもではないが言うことはできない。
「分からないぞ、ミヤ! どうしてお前は、こうも次々と変り種ばかりを連れてくるんだ。闇医者の中でもこんな客ばかりを扱うのは、あたしくらいのものだ。たまには普通の患者を連れてこられないのか!?」
 砂里先生はここぞとばかりに言った。それでも声は患者を起こさない程度にとどめているのは、先生なりのプロ意識の表れだろう。
「普通の患者だったら、こんなところには連れてきませんから」
 という言葉は、理性で口から出るところを押しとどめた。
 代わりになるべく申し訳なさそうな態度をとって、
「反省しています。以後、気をつけます」
「反省だけならザルにでも出来るんだよ。心にもない言葉は聞いた人間をひどく不快にさせるぞ」
 先生は憎らしげに言う。内心はバレバレのようだった。
「…………う、うっきー」
「あん? 何を言っている」
「いえ、なんでもありません。申し訳ありませんでした」
 今度は真剣に謝った。
 しかし砂里先生には申し訳ないが、今後も同じようなことがあれば、間違いなくぼくは先生を頼るだろう。何しろまだぼくはまだ高校生だ。出来ることには限界があり、出来ないことはあまりに多い。
 だからぼくの周りで誰かが怪我をした時は、きっとまた砂里先生を頼ることになる。そんな時でも先生は、きっと断ったりはしないだろう。先生はあんなことを言っていても、本当は相手が怪我をしているなら、どんな人でも放ってはおかない。先生が正規の医者の道を外れたのも、外国にいた頃、自分ならば救えたはずの患者を、立場やプライドが邪魔をして処置が遅れ、死なせてしまったことが理由だったと聞いている。
 煎じ詰めてしまえば、先生はいい人なのだ。
 傷ついている者がいれば、それがたとえ人間であろうとなかろうと助けてしまうほどに。
 だから先生は過去に怪異と遭うことになったし、今もこうしてそれと関わっている。
「あたしの言いたいのはだな」

 そう言って、砂里先生がきつくぼくを睨んだ。
 この日一番の眼光。
 ぼくは瞬時に何も言えず、動けなくなる。
「ミヤ、……いや、宿木都」
 砂里先生がぼくの名前をフルネームで呼ぶ。こういう時にされるのは、命に関わる真剣な話だ。
 先生はその鋭い瞳にぼくを捕らえたままに、言う。
「お前はいつまでこんなことを続ける気なんだ、ってことだよ。まだ若いお前が、こんな危険なことをしている理由をあたしは知らない。聞く気はないし、きっとお前も話す気はないんだろう。だが、これだけは言わせてもらう。」
 一息をついて、砂里先生は言った。
 冷めた空気を漂わせながら、
「お前は、死ぬために生きてるんじゃないんだよ」
 砂里先生は、その眼差しのまま、そう言い、
「死ぬために生まれた人間なんて、いやしないんだ」
 と、続けた。
 心の、奥底まで入ってくるような、鋭い言葉。
 そういえば、砂里先生とこんな話をするのは初めてだった。
 たしかに先生は、ぼくがこんなことをしている理由を知らない。
 ぼくの過去も。
 それを聞かず、それでもはっきりと言ってくれるのは、大人の経験といったところだろうか。それともその性格故か。
 そんな砂里先生の言葉を、ぼくは素直にありがたい、と思った。
 でも、
「分かってますよ。先生。ぼくは死にません。絶対に。それが……約束ですから」
 いつの間にか、自分の膝の上で、右手が強く握られていることに気がついた。
 力のこもった手。
 それはあの日立てた誓いの力だ。
 ――都くんは、死んじゃダメだよ。
 ――行け! 絶対にお前は帰るんだ!
 ――死にたく……ないよぉ。
 ――また、会おうね。どこかできっと、だからそれまで……
 ――ゴメンね。お兄ちゃん。
 昔に聞いた、いくつかの言葉が頭にリフレインする。
 決して色あせることのない、鮮明な記憶が。
 あの過去がぼくに手を強く握らせる。
「それに、これだって続けます。向居のことだって助ける。これからも、何人だって助けてやる。そして……」
 そして、――ぼくは目的を果たす。
 失われたものを、取り戻す。
 たとえ何年かかろうとも。
 どれだけ自分を犠牲にしようとも。
 そのためには悪魔の手を借りることだって、厭わない。
 最後の言葉は、ぼくの口から出ることはなかった。
 それはぼくと砂里先生の注意が、別のところへと向いたからだ。
 見ると、隣の部屋のドアが開こうとしていた。
 立て付けの悪い、動かす度にギイギイと音を立てていたドアが、静かに、何の音もさせずに開いていく。
 ドアを開けてやってきたのは、髪の長い浅黄色の少し大きめのパジャマを来た少女。
 目を覚ました向居カンナは、ぼくたちの前に姿を現した。

 

 

 同じ時刻、琥珀町の町境で一台のタクシーが、その車体を変形させ、真っ赤に炎上していた。
 闇夜を照らすその大火を背に、一人の少女が琥珀町の方角を睨んでいる。

 


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