[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
凍えるような十二月の、満月の夜に、僕は小学校にこっそり忍び込んだ。誰かに気づかれないように音を立てず、明かりも点けずに。
その目的は中央会談の踊り場にある大鏡だ。何年も前の卒業生の記念品で、高さが三メートルもある。
その頃、大鏡にはひとつの噂がたっていた。
それは深夜十二時に鏡を見ると、鏡にいないはずの人が映る、というもので、いろんな学校でもあった怪談の一つとして生徒達の中に広まっていた。
これまでにも怖いもの見たさや、勇気の証明に来た生徒がいたという話だが、彼らが何かを見た、という噂もそれと同時に流れていたのだった。
そして、僕も彼らと同じように深夜の学校に忍び込んだ。
けれどその目的は、彼らとは違う。
僕は連れて行ってもらいたかったのだ。
鏡の向こうへと。
誰も知らない場所へと。
誰からも邪魔者扱いされていた僕は、誰にも必要とされていなかった僕は、どこかに行ってしまった方がいいのだと思っていた。
だから僕は鏡の前におとずれた。
そして僕は、鏡に映るはずのない男と出会った。
*
二十四歳になった僕は小学校教諭になっていた。
こうして最初の勤務先として、自分の母校が選ばれることは珍しいことではないらしい。
十年余りが経過しても、学校自体は多少年季が入ったように見える以外は、ほとんど変わらないままだ。
けれど、僕自身はずいぶん変わってしまった。
いつの頃からか教師を目指していた。
小さい頃からそんな夢を持っていた。
しかし時間の中でその夢を作っていた想いを忘れてしまい、いつからかその方向性だけが残ってしまった。それに従い、教育大学をでて、教師免許を取得し、母校へと帰ってきた。
教師になってみればそれも思い出せるかと思っていたが、やはりなくしたものは簡単には見つからない。
そのためかあまりヤル気も出ず、熱心さに欠ける新米教師、というのが周囲の僕に対するおおまかな見解になっていた。
今はこうして、夜の学校の見回りをやっているけれど、正直なところ生徒の相手をしているよりもずっと楽に感じている。
なんでも一月ほど前に生徒が侵入して、なにか悪さをしたそうなのだ。そのための教師による巡回だった。
そして三度目の巡回のとき、鏡の中に映る、そこにいないはずの少年を見つけた。
見覚えのある子供が、鏡の向こうからこちらを見ている。
その少年は十五年前の――――僕だった。
*
鏡の中にいる男性と僕は、しばらくの間ぎょっとした顔で互いを見つめ合っていた。
長身の、ぼんやりとした顔つきの男性。教師のようにスーツ姿。なんとなくお父さんに似た印象の人だった。
そのときの細かな感情は思い出せない。
とにかく恐怖よりも驚きが先に立って、怖がることを忘れていた。
そんな僕が、鏡の中の男を瞳にとらえたまま言った最初の一言、それだけは鮮明に思い出せる。
たしかに、僕はこう言ったのだ。
「ぼくを……そっちに連れて行ってください」
*
鏡の中の小さな僕は、そう頼んできた。
しかし僕はこのとき、まだ起きている事態がつかめずにいた。
信じられないが、僕は今の今までこんなことがあったことを忘れていたのだ。思い出してみると、たしかにこれは過去に見たものだった。デジャビュではない。十五年前、ぼくはあの鏡の向こう側にいた。フラッシュバックのように蘇る記憶に、混乱をきたしている。
けれどそんな状態の頭に対して、身体は自然に動く。
口が、無意識のうちに言葉をつむぎだす。
まるでカセットの再生ボタンを押したかのように、昔聞いたはずの言葉が、そのまま口から出てこようとしている。
「どうして、……そんなことを言うんだい?」
と、聞き覚えのある声で。
*
鏡の中の男性に聞き返されて、それから僕はどうしたのか。
そう、すべてを打ち明けたのだ。
今まで自分の中に溜め込んでいた悩みを、すべて話した。
詰め込んで詰め込んで、決して誰に対しても取り出すことのなかった気持ちを、初めて会った異界の男に打ち明けていた。
あの時はどんなことを話したのだろう。
学校のことか、それとも家庭のことか、友達のことや、未来のことだったかもしれない。
涙ながらに話していたために、その内容はほとんど忘れられているが、話を聞いてくれていた、お兄さんの表情は鮮明に記憶に残っている。
彼は少しだけ寂しそうな顔で、僕の目を見ていた。
そして相槌を打ってくれたり、言い切れない部分を補ってくれたりしながら、まるで僕の心の底までを汲み取ってくれるように、お兄さんは話を聞いてくれた。
僕が話し終えて、もう一度連れて行ってくれるように頼んだ。誰も必要としてはくれないから、と。
すると彼は、すごく悲しそうな顔をした。
そして顔を引き締め、力のこもった視線を僕に向け、
『聞くんだ……
*
なんでだろう。
そういえば僕は小さい頃、たいへんだった。本当に本当にたいへんで。子供なりに悩みぬいていたはずなのに、今ここで話を聞くまで、そのことを忘れ去っていた。
鏡の向こうには十五年前の僕がいる。
泣きそうな顔をして、自分を苦しめる周囲を語っている。
いつからか僕の中の動揺も消え、言葉は自然と出ていた。
そしてもう一度、連れていってくれるようにと言った。
次は僕の番だ。
何を言うのかは覚えている。
いや、思い出すのと口から出るのはすべてが同時なのだ。
未来だった言葉が、現在の僕を通して過去へと運ばれる。
「聞くんだ……
*
『たしかに君は今、誰からも必要とされていないのかもしれない。けれど、それは君がいらない子だっていう訳じゃないんだ。君は今そこにいるだけが君じゃない。中学生の君も、大学生の君も、今よりもっと小さかった君だって、みんなひとつながりで一人の君なんだ。だから君はこれから必要とされるようになればいい。希望を持っていい。諦めなくて、いいんだよ』
それは力強く、優しい言葉だった。
言いながら、鏡の中のお兄さんは泣いていた。
泣きながら、僕を励ましてくれた。
その言葉を聞いている僕の瞳からも涙が溢れて、それは止まらずに流れ続けた。
*
僕は泣いている。
鏡の向こうの僕も、泣いている。
二人の僕が、泣きながら見つめ合っている。
『ぼく……ぼくは…………』
向こう側の僕が、しゃくり上げながら言葉をつむぎだそうとする。
泣き声で、ふさがりながらも、小さな僕は語ろうとしている。
それは夢の話だった。
僕が忘れていた、ずっと大切にしていたはずの、夢の話だ。
『ぼく、……先生になりたいん……です。……困ってて、悩んでる子たちの相談にのれて、助けて上げられる先生に。…………でもずっと、ずっとぼくはいらない子だと思ってたから……誰にも、言え……言えなかった』
それは初めて言葉にした、心の一番底に沈めていた想いだった。
僕の原点であり、力の源であり、そして夢だった。
『ぼくは、先生に……なりたい』
*
『大丈夫、だい……じょうぶ、だ。なれる。きっとなれる』
鏡の中で涙を流すお兄さんは、けれど顔は笑顔だった。
こんな笑顔で笑いたい、本当にそう思った。
次の瞬間、テレビのスイッチを落としたかのように鏡からお兄さんの姿が消えた。
それからは何をしても、またお兄さんと会うことはなかった。
けれど確かにあの時あの鏡には、優しいお兄さんはいた。
そこで僕が変わった、その事実が証として残っていたのだから。
*
気がつくと、僕は中央会談の踊り場、そこにある大鏡の前に立っていた。
立ったまま眠っていたらしい。
けれど、なんだか不思議な夢を見ていた気がする。
現在のような、過去のような、未来のような、そんな曖昧な夢を。
「っと、いけないいけない。今日は帰って生徒の相談の返事を考えなきゃいけないのに」
頭を振って、寝ぼけを取り払う。
その足取りは不思議と軽い。
なんだかすっきりした気分だ。
それは欠けていたものが綺麗におさまった感覚。
さっきまで悩んでいた自分が嘘のように思える。
鏡の前を横切り、隣の校舎へと歩き出す。
明日も頑張ろう、そう思えてきた。