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私の住む町は、細い路地が幾重にも折り重なっていて、慣れていない者や、方向感覚の悪い者は簡単に迷ってしまう。
もう三十を過ぎる私は、さすがにもう慣れてはいるが、かなりの方向音痴だったので、ずっと住んでいながら小さい頃は苦労したものだった。
しかしおかしなことに、小学生になったばかりである私の息子は、これまでに一度もこの町で道に迷ったことがない。どこへ遊びに行っても、必ず夕方までには帰ってくるのだった。普通ならば、遺伝しないでよかった、と安心するところなのに、私はそのことをどうも不思議に思えてしかたなかった。
そして一度、息子に訊いてみた。
「広志は一度も迷子になったことがないな。あの迷路みたいな町で、迷わないのか?」
「うん。迷うよ。ときどき知らない場所に出ちゃったりする」
「じゃあ、どうして家に帰りつけるんだ?」
「優しいお姉さんが道を教えてくれるの」
息子は笑顔で語った。
私は、ああそうか、人に道を聞いていたんだな、と納得し、小さいながらの行動力に感心した。
いつの間にか息子は、その町での有名人になっていた。
子供たちの中では秘密の近道を見つける天才と言われるようになり、ある時は迷い猫を見つけ、またある時は迷子の友達を探し出して家まで送り届けたこともあった。
私は早々に追い抜かれてしまった、というちょっとした敗北感を感じつつ、また息子の成長を喜んだ。
梅雨の日の夕方のことである。
私は地下鉄の入り口の前で立ち往生をしていた。
突然振ってきた夕立のためだ。予報にはなかったので、傘は持ってきていない。息子が待っているから早く帰りたいとは思うのだが、雨はいっこうにやむ気配もなく降り続いている。
ぼんやりと雨の向こうを眺めていると、見知った人影を見つけた。
黄色の防水服を着て傘を持っている、息子の姿だった。
「はい、お父さん。困ってると思ったから」
私に大人用のこうもり傘を渡しながら息子が言った。
「ああ、ありがとう。助かったよ。でもお父さんがここにいるって、よくわかったな?」
たしかに不思議だ。ここがいつも使っている駅ならば、息子にも予測はつくだろうが、私はいつもは自家用車で出勤しているのだから、この駅の場所さへ息子は知らないはずだ。地下鉄の入り口だけでも、あちこちにあるというのに。
私が尋ねると、息子は嬉しそうな顔をしながら、
「お姉さんが教えてくれたの」
と、答えた。その表情はなんだか自慢げで、そのお姉さんとやらを誇っているように聞える。
しかし私を知っていたということは、お姉さんというのは家のご近所さんだろうか。さほど顔の広くない私は、あまり隣人のことは覚えていない。
「へえ。じゃあお礼言わないとな」
「分かった。連れて行ってあげる」
息子は大きく笑うと、雨の中に私の手を引っ張っていった。
私はあわてて傘をさして、その小さな手に引かれていく。
「お姉さんはね。いつも同じ十字路にいるんだ」
雨の中で息子は楽しそうに、そのお姉さんのことを話している。
息子には“四つ角”のことを、“十字路”と呼ぶ癖があった。これは妻の口癖で、実は私にも移っていた。
「それでね。いつも真っ白な服を着てて、すごく優しい笑顔をしてるんだ。それになんでも知ってるんだよ。近道だって、猫のいるところだって、お姉さんに教えてもらったんだ。この前なんて、迷子になったトシくんの場所のことも教えてくれたんだよ」
楽しそうな息子の話に、私の顔も自然とほころんでくる。
私も子供の頃は、友達とこのあたりの迷路みたいな土地を探検ばかりしていた。違いがあるとすれば、いつも私一人がみんなとははぐれてしまって迷子になっていたことくらいだろう。
きっと息子はみんなから好かれているのだろう。私も、迷子になって心細い自分を見つけてくれた友達のことは、いつまでも感謝し、覚えているものだ。
「ここだよ。ここにいつもお姉さんがいるんだ」
細い道を曲がったところで、私と息子は十字路の前に出た。
ぎりぎりで車が二台通れるか通れないかの細い道路。さび付いたカーブミラーはくすんでいて、その半分も景色を写していない。地面の表示もかすれて、なんだか寂しい感じのする場所。降りしきる雨のために、どの道の先も今は見通すことはできない。
「あっ。お姉さんだっ」
息子が路地の向こうへかけていく。
水溜りで足をパシャパシャさせながら。
けれど私は、そこに呆然と立ち尽くして動かなかった。
いや、動けなかったのだ。それは驚きと戸惑いによるもので、
「ここは……」
この場所には覚えがある。
ここは決して忘れることのできない場所。
もう長い間訪れていなかったのに、その景色は昔と変わっていない。降りしきる雨が、雑音を消し去り、より鮮明に昔の情景を私に思い出させる。
ここは
ここは、私の妻が事故で亡くなった場所なのだ。
「ありがとうお姉さんっ。ちゃんとお父さんに傘を届けられたよっ」
十字路の一角で息子が楽しげに話している。
しかし誰と話しているのか。
息子の目の前には電信柱があるだけだ。
何もない中空へと、息子は言葉を投げかけていた。
嬉しそうに、楽しそうに。それはまるで、母親に見せる子供の笑顔で。
息子は私のもとへ走ってきた。
「お姉さんもよかったね、って。えらいねって褒めてくれたよ。あれ? お父さん……なんで、泣いてるの? どこか痛いの?」
息子が私の顔を見上げながら、心配した顔をしている。
私は涙をぬぐうと、しゃがんで一緒に息子の見ていた場所を見る。
やはり私にはそこに何も見えはしない。ただの景色があるだけだ。
そういえば私も子供の時には、よくこの道を駆け抜けていた。秘密の近道を探して、猫の集まるところを見つけて、そして迷子になるたびに見つけてくれていたのは、幼いころの私の妻だった。
あの時の、いつも私を見つけてくれたときに見せる、しょうがないなあ、と言いたげな笑顔が思い出された。
その笑顔は確かにその景色の中にあった。
優しい微笑みを、私と息子は感じている。
そうか。ありがとう。お前はちゃんと広志のこと見ていてくれたんだな。
「じゃあ、行こうか。あまり雨の中にいると風をひくぞ」
「うん。じゃあねっ。おねーさん!」
息子は同じ方向へ手を振っていた。
私も同様に手を振り、息子の手を引いて十字路を横切った。
またここには来ようと思う。
今度もまた息子と一緒に、彼女の好きだった百合の花を持って。