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――『“本”の物語』の再考です――
あれは夏休みが始まってすぐの頃だった。
思えばあの出会いは運命とか必然とか、そういうものじゃなくて、本当はオレがいようがいまいが事は勝手に始まって勝手に終わるようになっていて、べつにいなくてもよかったオレはただ巻き込まれただけのものなのかもしれない。
とにかくオレはあの日、あの場所でじいさんと出会った。
一つだけ間違いのないことは、あの出会いがオレにとっての転機だったということだ。
1
あの日、オレがガラにもなく図書館なんぞに入ったのは、ダチの真田を探すためだった。
午後から出かける約束をしていたというのに、迎えに行くとあいつは約束をすっぽかしてどこかへ行っていた。
真田の行きそうな場所で最初に思い当たったのがあの図書館だった。そこを選んだのは本好きの真田が年中通っている、一番行きそうなところだったからだ。
その図書館はオレたちが通うS学園にあるもので、その区域の中に小中高の校舎を要している学園の、それらのための膨大な書物が一つの図書館に収められていて、そこは休日には一般にも開放している。その壁という壁に、普通の建物の倍以上ある高さの天井まで大量の本がぎっしりと並べられ、多くの本棚が迷路のように配置されている。
まともに入ったのはその時が初めてで、オレは右往左往しながら真田を探していた。
じいさんは迷路のように並ぶ本棚の奥の奥、窓から遠いから外からの光も届かない薄暗い場所にいた。
体育倉庫のような厚い扉の向こう側で、広さは教室ほどある。その場所でもやはりたくさんの本棚に大量の本が納められている。しかし他と違うところは、置かれている本が目に見えて古いものばかりだったということだ。表紙がよれよれになっているものや、かすれて見えなくなっているものもある。ここが表に展示できなくなった古書の棚だということはすぐにわかった。
その中に廊下の周りに本を積んでいるところがある。その中にじいさんはいた。白が多く混じった灰色の髪に皺だらけの顔。目が悪いのか、この暗い部屋の中でサングラスをしている。そして曲がった腰のままで本棚の一つに向き合っていた。よれたシャツの上から厚手のエプロンをつけており、このじいさんがカウンターにいたのと同じ司書の人だとオレは予想をした。
どうやら棚の整理をしているみたいだったので、オレは手伝いを申し出た。どうせ今日の予定はお流れになりそうだったし、困っているお年寄りに親切にするのは昔からの教えだったのだ。じいさんは断ったが、最終的にはひきさがらないオレに折れたのだった。
「湯浅くんは本が好きなのかい?」
閉館十分前を知らせるチャイムが図書館に鳴り響き、仕事が一段落ついたこともあってじいさんがオレに尋ねてきた。
「達也でいいよ。それに本は読まねえんだ。ここにはダチの真田ってやつがよく来るんだよ。ここに来たのだって、これが初めてだし」
自慢できる話ではないので、なんだか鼻の頭がかゆくなってしまう。
それに本を読むのは昔から苦手だ。国語の授業くらいでしか本は読まなかったし、なにより字ばかりのページなどまともに見てもいられない。ほとんど暗号表にしか見えない。
「そうかい。それなのに図書の整理を手伝わせてしまって悪かったね」
じいさんは本日何度目かのお礼を言った。
「いいって。どうせ暇だったし。オレじゃなくたって別のヤツが通りかかっても同じことしてたろうよ。それに、力仕事は好きなんだ」
オレは自分の力こぶを見せながら言った。
それに応えてじいさんが目元のしわを寄せて微笑んでまたお礼を言うのが、オレには少し照れくさかった。
「達也くん。もしよかったらこの本を読んでみないかな。気が向かなければ読まなくてもいいから」
帰り際にじいさんがオレに一冊の本を手渡した。
ハードカバーの薄く古い本。総ページ数は二十ページほどしかない。ここまで関わっておいて遠慮するのもまた気が引けるので、オレはその本を受け取り家に帰った。
驚いたことにオレはこの本を読みきってしまった。
一ページの文字は大きく少量で、小さいときに読んだ絵本のような本だった。後になって知ったのだが、あれは少し長い詩の本だったらしい。不思議と次々とページをめくってしまい、テレビをつけることさえ忘れてオレはその本を一気に読み終えてしまった。
読み終えた後のオレの心情はなんだか不思議な気持ちだった。あれはたぶん、本に引き込まれるという感覚だったのだろう。
オレは次の日も図書館に行った。
奥の奥の棚に分け入り、やはりじいさんと会って昨日と同じように棚の整理を手伝った。なんでもじいさんはこの部屋にある本を全部整理するつもりらしかった。その話を聞いたときオレは最後までつきあいたい、そう思った。きっとじいさんは遠慮するだろうが、断られるつもりはなかった。たぶんオレは本というものに新しい興味を抱いてしまったのだ。
そしてまた別れ際には新しい本を借してもらい、家に帰ってからすぐに読んだ。
あの日からオレは毎日図書簡に通うようになった。
本棚の整理と、一日一冊のペースで本を読むことは習慣になった。じいさんの渡す本はだんだんと厚くなり、難しい字も増えるようになってきたが、オレは長く使っていなかった辞書まで取り出してそれらを読むようになっていた。
それにじいさんはオレにまだ読んでいな色々な本の話をしてくれた。それだけではなく、本を読むことの楽しみ方や、自分の読書経験などもたくさん語って聞かせてくれるのだった。
オレが図書館に通うようになったのは本を読むことが好きになったからかというと、本当の理由はそうではない。
ただ単純に、オレはあの部屋とそこにいっぱいに置かれた古い本たちと、それらを大切にしているじいさんが好きになってしまったのだ。
夏休みに入って二週間が経ったとき、ひさしぶりに真田と会った。
偶然会ったのが帰り道だったので、二人してファミレスに入ってから少し話をした。
ずいぶんの間見なかったと思ったら、真田はなんと新しく出来た彼女と毎日のように遊んでいたらしい。そのために毎日図書館に通っているオレとはまったく会わなかったのだ。
彼女のことを話す真田の話がいい加減にうっとうしくなってきたので、オレは代わりに自分の話をした。図書館で出会ったじいさんのこと。本棚の整理を手伝っていること。本を読むことを好きになったことを、順々に話していった。
真田はオレが本を読むようになったことに驚き、そしてじいさんの話のときに、思い出したようにこう言った。
「ああ、知ってるよ。その人、きっと水沼さんだ」
その名前をオレは初めて聞いた。
エプロンの胸元には名札があった気がするが、そういえばまともに見たことがなかったのだ。
なんでもあのじいさんは図書館の創設時からいる司書で、以前は真田も図書館でよく見かけていたらしい。
「でもあの人、歳のせいで調子を崩しちゃったらしくて、小学校の時から見てなかったけど……、へえ、よくなったんだな」
意外にも真田が図書館の内情に詳しかったことにオレは驚いた。そういえば真田は小学校のときもずっと図書委員だったし、放課後にはよく通っていたのを覚えている。
その後すぐに真田とは分かれたが、ここでじいさんの話を聞けたのは嬉しかった。たしかにあの本を大事そうに扱う様は年期と愛着があってのものなのだろう。真田がじいさんの図書館での働きぶりを語ってくれたときは、なんだか自分のことのように嬉しかった。
2
本棚の整理と、本の貸し借りは夏休みの終わりまで続いた。
オレの宿題は、今年も一切手をつけられないかと思っていたが、意外にも国語の宿題などは驚くほどにサクサクとできた。じいさんから借りる本には、古典や漢文が混ざるようになっていたので、それで慣れていたためかほとんど苦労も感じなかった。
夏休みの最終日、そろそろ閉館時間という時刻に至って、ついに本棚の整理がすべて終わった。最初は無理ではないかとも思ったが、やればできるものだ。明日からは学校も始まりオレも来ることが難しくなるので休み中に終わったことは嬉しかった。
じいさんもオレと同様に手放しに喜んでくれた。
じいさんはオレの手をにぎって何度もお礼を言ってくれた。
「ありがとう達也くん。君のおかげでこんなに早くに終えることができたよ。もう間に合わないかと思っていたからね。ありがとう、本当にありがとう」
「いいよ。オレも楽しかったしさ。じいさんのおかげで本も好きになれたんだし、オレの方こそお礼を言わないとな」
照れくささを隠しながらもオレがあわてて言うと、じいさんはオレの言葉を防いでまで自分の言葉を続けた。
「いいや、礼を言わせてほしい。ここはずいぶん思い入れのある場所でね。最後に少しでも片付けておきたかったんだ。本当に助かったよ。ありがとう」
オレはいよいよ照れくさくなって、鼻の頭をこすりながらしきりに、いいっていいってと繰り返した。
「そうだね。何かお礼ができればいいのだけれど。あいにくここにある本は全部図書館の物だから、……そうだ。今度家に来て欲しい。ちょうど君に渡したいものがある」
じいさんは自分の思い付きがよほど嬉しいのか、またとてもいい顔で笑った。
オレもつられて嬉しくなってしまって、今度は遠慮することができなかった。
「今度の日曜日に私の家を訪ねてくるといい。場所はこの近所で人に聞けばすぐに見つかるだろう」
じいさんの笑い声が聞え、オレはなんだかふらっと頭がぐらついた。
地面が揺れたような感覚を味わい、気がつくとオレはあの暗い書庫の外に出ていた。
あの体育倉庫のような扉の前に立っていて、振り返ると扉は閉められ握力計くらいの大きさの分厚い南京錠で鍵がかけられていた。
どうやら本棚の整理が終わったために、鍵を閉めてしまったようだ。たしかにあの書庫の本は一般に貸し出すような本ではないものも多かった。
じいさんの姿も見えなくなっていたので、その日はそのまま家に帰った。
失敗だったのはうっかり昨日借りた本を返すのを忘れていたことだった。たぶんあの棚の中にはこの一冊を収めるためのスペースが空きっぱなしなっているはずだ。
学校が始まって数日が経ち、二学期最初の日曜日が訪れた。
鞄にあの本だけを入れて、オレはじいさんの家を訪ねた。
たしかに水沼邸は地元でも有名な屋敷で、近所に住んでいる人ならば大抵が知っていたので、見つけるのに苦労はなかった。
チャイムを押すと中年の女性のものであろう声が返ってきた。
S学園の生徒で、司書の水沼さんに借りた本を返しにきました、というと女性は二つ返事でオレを通してくれた。
門から出てきたのは、屋敷の印象にぴったりの和服のおばさんだった。顔がじいさんに似ている気がするから、じいさんの娘さんなのかもしれない。
じいさんはもうすぐ起きるので、それまで待ってからオレをじいさんの部屋まで案内してくれるとおばさんが言った。
「本当にね、学校の生徒さんが来るなんて珍しいわ。ずいぶん昔はよく来てくれてたんだけどね」
応接間に通されたオレは、出された紅茶を飲みながらおばさんの話を聞いていた。
なんでもあの図書館ができたのは今から五十年ほど前のことで、学校の創設よりも遅かったらしい。当初はあの場所にはもっと小さな図書館があったのだが、そこにある資料や書物は量が少なく、地元の書蔵家であった水沼の家に時々生徒が本を借りに来ていたそうだ。
その後、図書館を改築するに当たって、あの学校とも関わりの深くなったじいさんは自分の家の書物の多くをその図書館に寄付して、自分も司書として働くようになったらしい。
「おじいちゃんはいい本を子供に勧めるのが大好きな人でね。本の貸し借りを通していろんな子供たちと仲良しになっていたわ」
おばさんは自慢の家族のことを誇らしげに語った。それはオレも大いに賛同することで、楽しい気持ちでじいさんの昔の話を聞いていた。
しかし途中から、ちょうど五年ほど前の話になったところからおばさんの話の口調が暗いものへと変わってきた。
なんでもじいさんは五年ほど前から糖尿病を患うようになり、外に出歩くことが難しくなって、ついには図書館にも行けなくなってしまったそうなのだ。その頃のじいさんを語るおばさんの表情は、少し痛々しいものだった。じいさんが図書館に行けないことをどれほど辛く思っていたかがわかるのだろう。オレもたった一ヶ月の付き合いだったけれど、それでもじいさんがどれほど本と子供が好きなのかはわかる。
だとすると最近になって病気が回復したのはとてもよかったことだろう。じいさんは喜んだろうし、きっとおばさんも喜んだはずだ。
そろそろ病気が回復する話になるのか、と思って聞いていたのだが、なかなかその話にならない。おばさんの話の中で、じいさんの調子が戻るのを今か今かと待っているのに、その話は一向に出てこず、そして出てこないまま最近の話になってしまった。
少し混乱気味になっているオレを前に、さっきよりもっと落ち込んだ調子でおばさんは語った。
「それでね。この夏に入ったくらいからあまりはっきりした意識も持たなくなってしまったのよ。最近は話しかけてもあまり反応してくれなくて……お医者さんもそろそろ危ないかもって。だからまだ大丈夫なうちにあなたが来てくれたことは本当によかった。選んだ本を貸した子供が返しにきてくれたんだもの。きっとおじいちゃんも喜ぶわ」
そこにきてやっとおばさんは頬の筋肉を緩めるに至った。
すでに話し始めて半時間が経っていただろうか。どちらの前に置かれたティーカップもその量は減っていない。
おばさんは時計を見上げると、そろそろね、と言って立ち上がって奥の部屋を見に行った。
けれどオレはその場で動けないままでいる。
頭が混乱していて、何を考えているのかさえわからなかった。
じいさんがずっと寝たきりだった? 意識がはっきりしていない?
じゃあオレがあの図書館で会った人は誰だったのだ。オレに本を薦めてくれて、一緒に本の整理をしたあのじいさんは。
未だ頭の整理のついていないオレを、奥の部屋と通じるふすまを開けたおばさんが呼んだ。
立ち上がり、呼ばれるままにその部屋に通される。
じいさんの部屋。
そこは本に囲まれた場所だった。壁という壁にたくさんの本が敷き詰められている。書斎、というイメージがピッタリの部屋だ。そういえば図書館のあの部屋とも少し印象の重なる所があるような気がする。
その部屋の真ん中、おそらく机などがあった場所に電動式のベッドが置かれ、そこにじいさんは寝ていた。
そこにいたのはたしかにあのじいさんだった。白髪の混ざった灰色の髪に、皺だらけの顔、サングラスはされていないが顔の形でわかる。決して間違うはずがない。本をとても大事そうに扱っていたあのじいさんが、オレに本のすばらしさと楽しさを教えてくれたあおのじいさんが、一月もの間を一緒に過ごしたじいさんが、目の前で力なく眠っていた。
おばさんはじいさんの耳元に顔を近づけ、
「お父さんお父さん、昔に本を借りた子が本を返しにきてくれましたよ」
しかしじいさんは目立った反応を示さなかった。
ただ眠っているように、小さな口から言っていの呼吸音を聞かせていた。
「あなたも。おじいちゃんに話しかけてあげてくれる?」
オレは無言のままにじいさんのすぐとなりまで歩いた。
間近で見るじいさんの姿は、図書館で見たときよりも弱弱しく見えた。
おばさんが言うには起きているらしいが、オレには眠っているようにしか見えない。
そしてそんな違いもわからないということが、じいさんのことを大好きになっていたオレにはとてもショックだった。
「あ…………あの……」
言葉が上手く出てこない。
言いたいことがあった。お世話になったじいさんに、直接言いたいことがあったのだ。
それを言うつもりで今日もここにやってきたのに、いざ本人を前にして、動かないじいさんを前にして、その言葉は口から出てこなかった。
かすれる音ばかりが口から出る。
混乱と、ショックとが一緒になって頭を揺らし続けていた。
オレがじいさんの横で突っ立っていると、不意にじいさんの方に動きがあった。
ベッドからオレの方へとするすると手が伸びてきたのだ。
それはあの図書館でも見ている、白くて細い腕。
オレはその手を自分の手で包んだ。力を入れないようにしながらも、せいいっぱいに握り締める。すると、にぎられていたじいさんの手の力が緩まったと思うと、その中ににぎられていたものがオレの手のひらに落ちた。
それは鍵だった。
古い作りの、重厚な鍵だ。
そしてまだ状況がつかめていないオレの方に、じいさんの顔が向いた。まぶたは開かれなかったが、目が合った気がした。
そしてオレにはまた、じいさんの口が動くのも見えた。
音は出ていなかったが、なにかを喋ろうとしていた。ゆっくりとした皺だらけの口の動きを、オレだけが追えていた。
そしてじいさんはたしかにこう言ったのだ。
『あ・り・が・と・う』
と。
オレはもう一度じいさんの手を握り締めた。
力を入れないように気をつけながら、それでも決して離さないようにするために。
言葉をせき止めるものはもうない。
「ありがとうございました。……ありがとうございました。……ありがとうございました……」
たくさんのことを教えてくれて、ありがとうございました。
本の素晴らしさを教えてくれて、ありがとうございました。
一緒に過ごしてくれて、ありがとうございました。
何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。
いつの間にかオレの両目からは涙が流れ落ちている。
何度繰り返してもお礼の言葉は尽きなかった。
じいさんの手の力がなくなるまで、オレはそうして手を握り続けていた。
後日、じいさんの葬儀はしめやかにおこなわれた。
参列者には昔のS学園の卒業生達が多く訪れていた。
その誰もがオレと同じ、じいさんに教えられて本が大好きになった子供たちだったのだ。
あの鍵はおばさんにも話した上で、オレが貰い受けることになった。
鍵の使い場所は聞かされなかったが、そんなものオレには一つしか思い至らなかった。
やはりあの鍵は図書館の奥の奥にある外光も届かない薄暗い場所にある体育倉庫みたいな扉、旧書庫の入り口にかけられた南京錠を開けるためのものだった。
オレはその中に入り、じいさんと一緒に整理を行っていたことを思い出す。
そしてオレは一つの棚の奥にある、ハードカバー一冊分の隙間を見つけた。
それは、ちょうどじいさんから借りた最後の本が収まる間隔で――