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――『”鏡”の物語』の再考です――
小学校の高学年に上がるか上がらないかの頃。
凍えるような寒さの十二月。満月の夜に僕は小学校にこっそり忍び込んだ。誰にも気づかれないように音を立てず、明かりも点けずに。
その目的は中央会談の踊り場にある大鏡だ。何年も前の卒業生の記念品で、大きさは僕の身長の倍近くある。
その大鏡にはひとつの噂があった。
深夜十二時に鏡を見ると鏡にいないはずの人が映る。そういう話が当時は学校中で話題になっていた。
これまでにも、怖いもの見たさや勇気の証明に来た生徒がいたという話だが、彼らが何かを見たという話も、噂話に拍車をかけていた。
そして、僕も彼らと同じように深夜の学校に忍び込んだ。
上履きを履かないで歩く廊下は、しんとして冷たい。
誰かが言っていた。鏡の向こうには別の世界があると。
それはすべてが逆さになっている世界。
悲しいが楽しいになって、さみしいがうれしいになって、泣き顔が笑顔になる世界。
僕はそこに行きたかった。
今ある全部を捨てて、全部から逃げても。
だから鏡の向こう側の人に、連れて行ってもらおうとしたのだ。
向こう側へ、逆さの世界へと。
そのために大鏡の前に訪れ、
そして――――鏡に映るはずのない男と、出会った。
*
二十四歳になった僕は小学校教諭になっていた。
帰ってきた母校は、十年余りが経過しても学校自体は多少年季が入ったように見える以外は、ほとんど変わらないままだった。
空気も、匂いも十年前となんら変わっていない。
それに比べて僕はずいぶん変わってしまった。
いつの頃からか教師を目指していた。
小さい頃からそんな夢を持っていた。
過ぎてゆく時間の中でその夢を作っていた想いも忘れてしまい、いつからかその方向性だけが残ってしまった。それに従い、教育大学を出て、教師免許を取得し、念願の教師になり、こうして母校へと帰ってたが、期待していた達成感も喜びも胸の中には湧いてきはしなかった。
教師になってみればそれも思い出せるかと思っていたけれど、やはりなくしたものは簡単には見つからないでいた。
そのためかあまりヤル気も出ず、現在も熱心さに欠ける新米教師というのが、僕に対するおおまかな評価になっていた。
今はこうして、夜の学校の見回りをやっているけれど、正直なところ生徒の相手をしているよりもずっと楽に感じている。
なんでも一月ほど前に生徒が侵入して、なにか悪さをしたそうなのだ。そのための教師による巡回だった。無駄な用心だと思う。昔はそんなに大げさに反応などしなかったというのに。
「……?」
昔、なにかあったのだろうか。自分の記憶に何かが引っかかった。
夜の学校。中央階段。誰もいない踊り場。
ふと視線を感じた。
振り返ると、そこには古びた大鏡があった。
その中で見覚えのある子供が、ここにはいないはずの子供が鏡の向こうからこちらを見ている。
それは十五年前の――――僕だった。
*
鏡の中にいる男性と僕は、しばらくの間ぎょっとした顔で互いを見つめ合っていた。
長身の、ぼんやりとした顔つきの男性。教師のようにスーツ姿。なんとなくお父さんに似た印象の人だ。
僕は喜ぶよりも怖がるよりも、驚きで何も言えなくなっていた。
ここには僕以外に鏡に映る人間は誰もいない。それどころか、鏡には僕の姿さえ映っていなかった。
決心はついていた。
言葉も決めていた。
未だに戸惑っている向こうの男に、僕は言う。
まっすぐに見据えて、
「お願い! ぼくを……そっちに連れて行って!」
*
『ぼくを……そっちに連れて行って!』
壁越しに話しているような、少しぼやけた声が聞えた。
その声の主は確かに向こう側の少年。昔の僕のものだった。
そうだ。
その言葉で、僕はすべてを思い出す。
フラッシュバックのようにあの夜の出来事が脳裏に蘇った。確かに十五年前、僕はあの鏡の向こう側にいた。ああして鏡に詰め寄って、向こう側にいた男性を見つめていたのだ。
まだ混乱の収まらない頭を置いて、身体は自然に動く。
口が無意識のうちに言葉をつむぎだす。
まるでカセットの再生ボタンを押したかのように、昔聞いたはずの言葉がそのまま口から出てこようとしている。
「どうして、……そんなことを言うんだい?」
自分の声なのに、それは懐かしさを感じてしまう。
この声は、昔に聞いたものだ。
*
その年の秋に、たった一人の兄弟である兄が交通事故で死んだ。母は悲しみに暮れるようになり、父はそのことを一刻も早く忘れようと、それまでよりももっと仕事に根をつめて家にはあまり戻らなくなっていた。
学校ではいつも一人でいた。一番仲の良かった友達が転校してしまってから、僕は他の子と接するきっかけを失ってしまった。いつも自分の机で本を読んでいた。誰とも話さない日々が続いた。
どこにも僕の居場所はなかった。
誰からも必要とされない僕には行くところがなかった。
この先にどう生きていけばいいのかもわからなかった。
だから鏡の向こう側へ行きたがった。逆さまの世界を、両親が笑って、兄がいて、友達と遊んでいられる世界を望んだ。
僕はそのことを鏡の中の男に打ち明けた。
今まで自分の中に溜め込んでいた悩みを、詰め込んで詰め込んで決して誰に対しても取り出すことのなかった気持ちを、初めて会った鏡の中の男に打ち明けていた。
男は寂しそうな顔をして、話をする僕の目を見ていた。
相槌もなく、頷きも答えもせずにただ僕をまっすぐに見つめ、僕の言葉に耳を傾けている。
男はしゃがんで、視線を僕に合わせると、その手を鏡に当てた僕の手に重ねてきた。
そして、とても悲しそうな顔で、話を始めた。
*
なぜだろう。
そういえば僕は小さい頃たいへんだった。本当に本当にたいへんで。子供なりに悩みぬいていたはずなのに、今ここで話を聞くまで、そのことを忘れ去っていた。
鏡の向こうには十五年前の僕がいる。
泣きそうな顔をして、自分を苦しめる周囲を語っている。
いつからか僕の中の動揺も消え、言葉は自然と出ていた。
そして彼はもう一度、連れていってくれるようにと言った。
次は僕の番だ。
何を言うのかは覚えている。
いや、思い出すのと口から出るのはすべてが同時。
未来だった言葉が、現在の僕を通して過去へと運ばれる。
*
『たしかに君は今、誰からも必要とされていないのかもしれない』
それはあの時に聞いた言葉だ。
心に響く言葉。
今ならその理由がわかる。
鏡の向こうは確かに逆さだった。
未来を失っていた僕と、過去を失っていた僕が薄くて遠い壁を挟んで、向き合っている。
『けれど、それは君がいらない子だっていう訳じゃないんだ。君は今そこにいるだけが君じゃない。中学生の君も、大学生の君も、今よりもっと小さかった君だって、みんなひとつながりで一人の君なんだ。だから君はこれから必要とされるようになればいい。希望を持っていい。諦めなくて、いいんだよ』
それは力強く、優しい言葉だった。
言いながら、鏡の中のお兄さんは泣いていた。
泣きながら僕を励ましてくれた。
逆さのはずの向こうとこっちが、同じことをしている。
僕の瞳からも、こぼれる涙は止まることなく流れ続けた。
*
僕は泣いている。
鏡の向こうの僕も、泣いている。
二人の僕が、泣きながら見つめ合っている。
『ぼく……ぼくは…………』
向こう側の僕が、しゃくり上げながら言葉をつむぎだそうとする。
泣き声で、ふさがりながらも、小さな僕は語ろうとしている。
それは夢の話だった。
僕が忘れていた、ずっと大切にしていたはずの、夢の話だ。
『ぼくが本当に……希望を持っていいなら……ぼくはみんなを助ける人になりたいです』
小さな僕の、涙に濡れた頬が緩んでいく。
やがてそれは笑顔になった。解放と、喜びの嬉しさの笑顔に。
『願っていいなら、……夢を見ていいなら…………今のぼくみたいに、困ってて悩んでる人を助けて上げられる人になりたい。…………でもずっと、ずっとぼくはいらない子だと思ってたから……誰にも、言え……言えなかった』
『ぼくは、先生になりたい。助けをほしがっている子供を助けて上げられる、先生に』
それは初めて言葉にした、心の一番底に沈めていた想い。
僕の原点であり、力の源であり、夢だった。
*
『大丈夫、だい……じょうぶ、だ。なれる。きっとなれるよ』
鏡の中で涙を流すお兄さんは、けれどその顔は笑顔だった。
こんな笑顔で笑いたい、本当にそう思った。
気づくと、お兄さんの姿が揺らぎ始めていた。
その像はだんだんと鮮明さを失い、声は遠く聞えなくなっていく。
そして数瞬もしないうちにお兄さんの姿は見えなくなり、鏡は泣きじゃくるぼくの姿だけを映していた。
けれど消えゆくお兄さんの最後の言葉は、口の動きで読み取ることができた。
お兄さんは確かに『がんばれ』と言っていた。
心に響く、あの声で。
それからは何をしても、またお兄さんと会うことはなかった。
けれど確かにあの時あの鏡には、優しいお兄さんはいた。
そこで僕が変わった、その事実が証として残っていたのだから。
*
気がつくと、僕は中央会談の踊り場にある大鏡の前に立っていた。
立ったまま眠っていたらしい。なんだか不思議な夢を見ていた気がする。
現在のような、過去のような、未来のような、そんな曖昧な夢を。
「っと、いけないいけない。今日は帰って生徒の相談の返事を考えなきゃいけないのに」
頭を振って、眠気を取り払う。
その足取りは不思議と軽い。
なんだかすっきりした気分だ。
それは欠けていたものが綺麗におさまった感覚。
さっきまで悩んでいた自分が嘘のように思える。
鏡の前を横切り、隣の校舎へと歩き出す。
明日も頑張ろう、そう思えてきた。