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008
『猿の手』は、作家ウィリアム・ウイマーク・ジェイコブスにより書かれた怪奇小説を発端とするものであり、猿の手は様々な物語に出てくるような、願いを叶える呪物として登場する。人の願望や欲望は底知れず、特殊な道具や、魔女や魔法使いが出てきて、それらを叶えてくれるという形式の話はあまりに多いが、その中でも猿の手は、ある意味で正統派の呪物と言える代物だ。
まさしく呪物。
呪う物。
呪いによって願いを叶える物、それが猿の手であった。
猿の手にもルールがある。その一つが回数の制限だ。制限自体は、三回までだったり、その手の指の数だけ叶えられたりとばらつきはあるが、物語の中ではたいていの所持者が一つ目を試すことに使い、二回目からを自分の欲望のために使っていく。しかし回を追うごとの気づくことになるのだ。自分の願いは確かに叶ってはいるが、それが自分の意に沿わない形となっているということに。そして最後にはそれらを悔いた使用者に全てのつけが回ってくる、というのがその話の結末になる。
そして、今それが目の前にあった。
見た目だけでの判断は危ういかもしれないが、猿の腕のミイラ、折れた指、そしてこの禍々しい気配からは、他のものが想像できなかった。
そしてそれを手にした三和川ミナが、ぼくを睨みながら言った。
最後の願いを、口にした。
「あいつを倒して!」
その声は部屋の中に響き渡った。
一瞬の出来事で、止めることどころか何一つ反応ができなかった。
パキ、と枯れ枝が折れるような音とともに、猿の手の残された最後の一本の指がひとりでに折れた。
発せられていた気配が禍々しさを増し、空気が淀んで息苦しさを感じる。
闇が満ちる。そんな感覚だった。それほどまでの邪気が空気に満ち、やがてそれは一点に収束する。その収束が頂点を迎えた時、ついに反転が始まった。
反転とは、人に憑いた怪異が完全に人の世界に現れるための通過儀礼だ。
多く宗教的な精神の中で通過儀礼とは、再生や、生まれ変わりを意味する。
それはまさに生け贄を捧げるように、憑かれた者の全存在をもって、怪異が人間の世界に顕現する。
それが反転。
三和川の身体が裏返る。
まったく違う存在へと、変換されていく。
現象としての反転は、変化とも、進化とも、増殖とも、汚染とも違う。
文字通り反って転ずる。
一瞬。
ほんの瞬きをするほどの間に、三和川ミナは完璧に異なるものになっていた。
今の今まで三和川が立っていた場所に、そいつはいた。
その形状は、あえて言うならば猿だろう。全身を真っ黒な毛が覆っていて、適度に長く、しなやかそうな尾が、動きに合わせて揺れている。
しかし、その体格が普通の猿のものではなかった。
その猿は人間のものとしか思えない体格をしていた。例えとしては、猿人、類人猿などが近いかもしれないが、こいつはそれらとも異なる。なぜなら、目の前にいるものには、先にあげたもののような未完成な部分など一切なく、一つの完成形としてぼくの前に存在していたからだ。
完全に獣のそれとなった目を、そいつはぼくに向けている。
理性を、意思をなくした目。そこにあるのは暴力と本能と、最初に定めた方向性だけだ。
「なんでだよ」
ぼくの問いに三和川だったものは、決して答えてくれない。
空虚なそれは誰に向かうでもなく、口から出てすぐに拡散していく。
それでも言わずにはいられなかった。
叫ばずにはいられなかった。
「なんでお前がそうなってるんだよ! 三和川っ!」
驚いているのは、ぼくだけではない。
砂里先生も、なにより向居が一番驚いている。
驚かずにいられようか!
こんな、脈絡もないことを!
なんでなんだ!
なぜ三和川が!?
――――――――分かっている。
その声は、ぼくの心の中から聞こえた。
自分自身でさえ触れることのできない深層から。
ぼくの声、けれどそれはぼくの意思には準じない、独立した声だ。
――――――――貴様は、分かっているんだろう。
声は問いかけてくる。
けれどぼくは心の中で首を振る。
ぼくは分かっていない。
見当なんてついていない。
だってそんなはずがないじゃないか。
三和川が、……三和川がそうだなんて。
――――――――そうだよ。それが答えだ。
声の促すままに、意思とは無関係にぼくの思考は加速していく。
猿の手を見た時に思った。
これは今頃出てきたイレギュラーなどではない。
むしろこれこそが話の起源であり、発端なのではないか、と。
“音無しの呪い”という前提条件さえ疑えば、全ての話は覆ることになる。
材料は既にそろえられていた。
重用なのは現在と過去。三和川と向居の、二人の立ち位置が逆になったという事実だ。
たとえば、こう考えれば納得がいくだろう。
三和川と向居が、神社の裏の封印された洞窟に入った時、二人は別れ、向居が呪いに行き遭い、三和川は何にも出遭わなかった。この時点で、それがすでにおかしいと考えることができる。疑惑の入り込む余地がある。
確率は二分の一だった。ならばそれは必ずしも向居が当たるわけではなかったはず。一割る二で、二分の一が二つ。つまり、三和川が外れを引いたのではなく、三和川もまた当りを引いていたのだ。それが――猿の手だった。
おそらくその神社のご神体とは、池ではなくその猿の手だったのではないだろうか。三和川の実家は、古い神社の家系と聞いていた。もしもその中で、猿の手の効力を知った上で、封じようとした者がいてもおかしくはない。
そして名前。『名は体を表す』。その洞窟は、もとは水穴だった。つまり、そこには水の加護があった。三和川ミナは三和川水無。水無月とは決して水の無い月なのではなく、水田に水を引くことから水の月を指すとされている。もとより三和川という苗字は神河(みわかわ)の異字姓。つまり彼女は、まさしく水神の加護を受ける名前を持っていたのだ。だからこそ、三和川は本命を引いた。
あの手の呪物には取り扱い説明書は必要ない。所有者は誰に教えられることもなく、それを使えてしまう。そして彼女は、それを手にした時にすぐに最初の願いを口にした。しかしそれは、当初の目的とは違うものであり、三和川自身がいつも思っていたことだった。それさえも予測はつく。三和川は言っていた。向居カンナは勉強も運動もあらゆる面で一番だった。自分はその背中ばかりを見ていた、と。それはつまり憧れていた、ということであり、憧れは嫉妬の裏返しだ。あらゆる面で自分より優れている姉。姉妹なのに何一つ取り柄のない自分。そして三和川は願ったのだろう。姉のようになりたいと、もしくは姉を超えたいと願ったのかもしれない。しかし、猿の手は願いを、使用者の意に沿わない形で叶える。それが“音無しの呪い”だった。呪いをかけられたカンナは、人の助けを必要とするようになる。結果として、三和川は彼女の庇護者となることができた。つまり三和川の願いは叶ったことになる。その代わりに向居に呪いをかける結果になりながらも。
三和川が最初に願ったそれが、猿の手にとっていくつ目の願いだったかは分からない。封印された時点で既に何度か使われていた、と考えるのは妥当だ。しかし少なくとも三和川はもう一度あれを使っている。今までに見てきた三和川の態度には、恐れがなかった。呪いをかけたのが自分であるということに対する、恐れが。そんなことなかったとして振舞っていた。つまり、忘れていたのだ。きっと幼い三和川は、姉が呪いにかかったのが自分のせいであることに気づき、もう一度猿の手に願ったのだろう。たぶんそれは、前の願いをなかったことにして、というものだった。結果として、三和川は猿の手のことと、それに関する記憶をすべて失い、そうして前の願いはなかったことになった。向居にかけられた呪いは残ったままに。それでも無意識のうちに三和川は猿の手はいつも身近に置いていた。深層心理の中に最後にはそれに頼る気持ちもまたあったのだろう。
それが真実。
それが答え。
だとしたら、なんてことなんだ!?
――――――――くはっ。くははははっ。
思考を終えたぼくの頭の中に、笑い声が響いている。
深い闇の中から聞えてくるような声。
その声は楽しそうな、可笑しそうな、そしてあまりに邪悪なものだった。
見えてはいなくても、あの口の端が吊り上っているのが分かる。
あの狂おしいほどに美しい笑顔が頭に浮かぶ。
声は笑い声に続けて、言う。
――――――――そうだよ。それはそれは、実に人間らしい在り方だ。それでいい。それでいいんだよ。小さき人間の小僧よ。それでこそ人間は美しい。
黙れ。
もういい黙れ!
声は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
代わりに目に飛び込んでくるのは正面の情景。
三和川ミナが反転したその猿は、ぼくを正面に構えて対峙している。
腕はだらりと下げられ、上半身もいくらか前傾姿勢。これが格闘技なら、その構えは隙だらけと言えるだろう。しかしこれは格闘技ではないし、そして相手はもはや人間ですらない。
こいつは怪異だ。
しかも左腕だけのぼくのような怪異もどきとは違う、完全なるそれ。さきほどまでの三和川とは、怪異としての格が違う。その力も段違いのはずだ。
それは一瞬だった。
瞬きさえも許さない一瞬の間に、猿はこっちに接敵してきた。
斜めに跳ぶような小細工など必要ない、ただの直進。それだけの動きにぼくはまったくついていけない。左手のガードさえも間に合わない。
下から突き上げられた猿の拳が、ぼくの身体を後方へとふっとばした。テーブルや椅子を巻き込んで、最終的には背中から壁へと激突する。殴られる瞬間に、かろうじて自ら後ろへと跳んだが、それがどれだけの効果があったか分からないほどの衝撃だった。ぼくにも左腕の力で全身がある程度の強化はされているが、それでも耐え切れるものではない。攻撃を受けたのが生身の部分だったから大ダメージだ。
壁に叩きつけられたぼくの身体が床に落ちる頃には、猿は既にぼくとの距離をつめきっており、追撃の体勢だった。後ろは壁だ。もはや後ろに飛ぶような小細工さえ使えない。
万事休すか!?
「うらあっ!」
ダメだ!
ぼくの方からだから、その姿は視界に入った。
砂里先生がまた消火器を振りかぶって、猿の背中に叩きつけようとしている。けれどいけない。今のこいつの状態は数分前のものとはまったく違うんだ。
案の定、猿は背中に眼があるかのごとく、振り返りもせずに自分に振り下ろされた消火器を片手で受け止めた。ぼくとほぼ同じほどの体重はありそうな先生の、全体重をかけた一撃が、片手だった。
これが怪異の力。
猿の腕の一振りで、消火器をつかんでいた砂里先生の身体が吹っ飛ばされる。
先生の身体は、部屋に設置されていた本棚に背中からつっこんだ。衝撃で本が崩れ落ちたが、棚自体は倒れることはなく、先生はその下に倒れこんだ。声さえ上げないところを見ると、意識を失ったのかもしれない。
まったくこの先生は、危ないというのに人が傷つくのを放って置けないんだから、本当にお人よしだ。人のこと言えたものじゃない。しかし、おかげで一発分の時間が稼げた。
猿が腕を振る際に後ろを向いた一瞬で、なんとか姿勢を中腰にまで上げて、左手をためる。これらの動きは呼吸を止めて無理矢理身体を動かした結果だ。次の一撃は当てないといけない。そして猿がこちらを再び見たところに、横薙ぎの一撃を叩き込む。外せない一撃だからこそ、攻撃範囲を広げる横の攻撃だ。
「っ!?」
しかし結果として、攻撃は外れた。
回避された。
猿は攻撃の瞬間。即座に飛び上がって横からの攻撃をかわしていた。これはただ脚力が強いというだけのものではない。こちらの動きを読んでいた。だが、猿の知能でそんなこと、いや、違う。感覚だ。攻撃をかわしたのは、おそらく背後を向きながらも、耳でぼくの動きの音を聞いて攻撃を察知したのだ。動物には思考がない分、感覚器官から運動神経への伝達がダイレクトで速い。
そして回避の後に来るのは攻撃だ。
天井まで跳び上がった猿は、空中で身体の角度を変えると、天井を蹴ってぼくの方へと降ってきた。さっき掴んだ消火器を振り下ろしてくるその様を見るぼくは、まるでプレス機にでも襲われようとしているような心象だ。
対するぼくも跳ぶ。
けれど方向は上にではなく、前にだ。
普通ならばそれでかわせる速度ではなかった。しかしさきほど放った左腕を即座に側面の壁に食い込ませ、攻撃のために生じていた遠心力を利用して跳ぶことにより、猿の攻撃をギリギリの距離でかわした。消火器の底が床を打ち、ビル全体が揺れたかに思える衝撃音が聞えた。
「がっ……はあ、はあ、はあ……ぜえ」
左手を壁から離し、わずかながら距離も取ったところで、ぼくはやっと呼吸を再開した。不足していた酸素を、身体中がむさぼっているようだ。無呼吸運動はたしかに運動能力を向上させるが、反動も大きい。猿は息一つ乱していないというのに、たった二手の攻防でこっちはもういっぱいいっぱいになっている。
猿は二度も攻撃をかわされたことにある程度の警戒を憶えたのか、今度はすぐに突っ込んで来ることはなかった。これはこちらとしてはありがたい。今はなんとかして、少しでも回復に当てる時間を稼いだ方がいい。
「お、……おまえ、三和川! どうして……」
腹を殴られたために呼吸するだけで苦しい。言葉はほとんど形をなせない。
「…………」
そして猿も返事をしようとはしない。
当然だろう。反転した状態ならば、三和川の部分は残っていたとしてもごく一部。そんなわずかな部分を刺激できるほどに、ぼくは三和川のことは知らない。
いや、そうでもないか。
よくは知らなくても、知っていることはある。
「向居の……カンナのためか……これも、お前の姉のためなのか」
「……っ」
わずかだが、今確かに反応が見えた。
やはり鍵は向居か。
猿の姿は怪異の顕現とはいえ、その出所は宿主である三和川の願いだ。この猿の姿は三和川ミナの願いの顕現した形とも言える。今ならば、表には出てこない本音を聞きだすことも出来るかもしれない。
「ぼくを倒そうとするのは、……向居カンナのためなのか」
「うう……うう……カンナ。カンナお姉ちゃん」
猿がその口を動かして言葉をつむいでいる。
しかし声自体は低いもので、とても三和川のものには聞えない。
猿はその視界にぼくをとらえたまま、ぎこちない口ぶりで言葉を続ける。
「お姉ちゃん、まもる。…………わたしが……まもる……お姉ちゃんを傷つけるやつは……許さない」
後ろで、向居が息をのんだのが気配で分かった。
今、彼女はどんな気持ちでこの光景を見ているのだろうか。
「わた……しは、わたし……は…………おん……しをするんだ」
「?」
「わたしはぁっ! わたしを助けてくれたお姉ちゃんにっ、恩返しをするんだっ!」
「っ!?」
叫ぶのと同時に、猿が手にしていた消火器を投げた。
まるでボールでも投げるかのような、手首のスナップだけでの投擲だったので、咄嗟のことに対処が単調になってしまった。無様にも向こうの読み通りに動いてしまったのだ。ぼくは飛んできた消火器を左手で弾いてしまった。唯一の武器が防御に使われれば、他はがら空きだ。
飛んできた消火器を上に弾いた瞬間には、猿は前方にはいなくなっていた。
既にぼくの視界の外、右斜め後方から左斜め後方のどちらかに移動している。振り向いている時間はない。ぼくは即座に左前方に跳んだ。根拠はさっきの攻撃が右からだったというだけだったが、幸運にも二分の一の確立は当たり、猿の攻撃は一瞬遅れてぼくの足元をえぐっていた。
「ぐうっ!」
背後に追撃の気配を感じ、ぼくは左手を前面に突き下ろす。爪が床に突き刺さり、勢いのままに跳び上って、片手の逆立ちをした。反転している腕は、通常時のものより大きいので、天井に足がつく。
そして猿がぼくの下をくぐった瞬間に腕を戻す。
着地までの滞空時間を警戒したが、そこに猿が跳び込んで来ることはなかった。
今までのパターンならばここは、追撃をいれるところなのに。
確かめるために猿の方を見て、答えはそこにあった。
猿とぼくの間に、さっきまで部屋の隅にいたはずの向居が立ちふさがっていた。
ぼくに背を向け、猿と対峙している。
こちらから見えるのは猿の表情だけだ。
猿の顔に浮かんでいたものは、驚きと、困惑だ。
なぜ自分の前に彼女が立つのか、分かっていない。いや、信じられないのだろう。
ここから、向居の背中がわずかに上下するのが見えた。
たぶん何かを言ったのだ。それでもそれは声にはならず、背後からでは彼女が何を言ったかは分からなかった。
次の瞬間。向居の手元から白煙が上がった。
消火器だ。さきほど弾かれていた消火器を向居が手にし、今まさに猿に向かってそれを吹きかけていた。猿は生まれた戸惑いを振り払えずに、その猛烈な白煙をその身に受けていた。部屋に白煙が満ち、視界が白に染まっていく。
しだいにぼくも猿も、同様に互いの姿を見失っていった。
しかし、それでも条件は同じではない。
向こうとこちらでは、受容器官のスペックが違う。このままではまた攻撃をしてもかわされてしまう。
「 !」
ぼくが動くのを躊躇っていると、右手に触れるものを感じた。
しかし声が出ることはなかった。
見るとそこには向居の姿があった。両手でぼくの右手をにぎっている。いつも顔を隠していた前髪はくずれ、その奥にある顔が見て取れた。そこに浮かんだ、表情も。
向居との付き合いは短い。それでも彼女の言わんとしているところは理解できた。
ぼくに出来ることは少ない。
だからこそ、やれるだけのことはやらなければいけない。
煙の向こうにいるはずの猿の姿を睨みつける。
一度、左手に力を込めて握った。
その感触は、あの日に誓った時のものだ。
誓いの力は未来のためにあり、
託された想いは友達のためにある。
ここからが最後の反撃だ。
009
宿木都(やどりぎ・みやこ)
匂宮一彦(におうのみや・いちひこ)
春風こより(はるかぜ・こより)
暗岸奈豊(くれぎし・なゆたか)
山野森香河(やまのもり・かがわ)
宿木光(やどりぎ・ひかり)
あの夏の日、ぼくを含めた六人が銀山(しろがねさん)にいた。
ぼく達がそこに集まったのは、いろんな偶然が重なった結果だった。
銀山は、ぼくらの住む伍葵市郊外にあり、山門から頂上まで続く鳥居の列が有名な山であった。深いこともなく、ただ鳥居と神社だけがある山で、遭難者など出るはずがない。そんな場所であの日、六人の少年少女が消えた。全員が十歳前後であり、どれだけ山を洗っても一人として消息がつかめなかったことから、世間では“神隠し”とまで言われるようになっていた。
“神隠し”。
昔から野山で突然子供などがいなくなることを、人はそれを神や妖怪の仕業と考え、そう呼んでいた。そして、ぼくたちの行き遭ったものは、まさにそれであった。
ぼくたちはその時、怪異と出遭っていた。
――怪異。
怪しく、人とは異なるもの。
それは時に怪奇現象として表れ、妖怪として語られ、呪いとして恐れられるものたち。
ぼくたちの場合――それは迷いの怪異だった。
沈まない太陽。
鳴り止まない蝉時雨。
終わることのない鳥居の列。
その終わることのない繰り返しの牢獄に、ぼくたち六人は閉じ込められ、迷わされていた。
困惑。不安。混乱。絶望。
友情。信頼。団結。希望。
そして反撃。
そして裏切り。
そして――誓い。
その全てを経てぼくはこの世界へと戻ってきた。
左腕を怪異のものへと、代えながらも。
あの日、ぼくは左腕の怪異と一つの契約をした。
自分の人生と運命と、そして命をかけた契約を。
それは宿木都が九十九の憑き物を落とす代わりに、怪異が五つの命をこの世に還すというもの。
そう、あの怪異から生還できたのは、――ぼく、一人だけだった。
あの日から、ぼくは明確な意思を持って怪異に接してきた。
自分の目的のために。
友達を救うために。
それが自分だけが生き残ってしまった罪悪感によるものだと、分かっていながらも。
人の願いには、裏の面がある。
いや、裏のないものなどこの世にはない。
裏とは人に見せるものではない。誰もが隠そうとするものだ。
しかし、裏こそが真実というわけでは決してない。裏があれば、それには必ず表もあるはずなのだ。真実とは裏と表を共有する。
そして、三和川ミナの場合、それはどうだったのか。
三和川は「恩返し」と言った。恩返しをするのだ、と。
それが彼女の願いだった。
見返したいのではなく、越えたいのではなく、お返しがしたかった。頼ってばかりの自分が申し訳なかった。姉の喜ぶ顔が、見たかった。
ぼくと三和川が初めて言葉を交わした時のことを思い出した。
あの時、ぼくたちは一人の小学生を庇おうとしていた。大切なお兄ちゃんのために、図書館の本を盗もうとした少年。ぼくと三和川は、どちらも彼を庇おうとしていたはずなのに、その考えの違いから口論になってしまって、図書館での論争は本末が転倒してしまったのだ。その時も三和川は、弟が兄を想う気持ちを主張していた。
今なら分かる。きっとあれは、忘れていた過去の自分と少年が、ダブって見えていたのだろう。
『姉に恩返しがしたい』。それが三和川が最初に猿の手に願ったことだった。
しかし猿の手は常に願いを、使用者の意に沿わない形で叶える。
そして向居に呪いがかけられることなり、三和川は恩返しをすることになった。
不自由の多くなった向居を助けること、それが三和川の恩返しであり、これまでの暴力や脅迫もその一つで、このビルに飛び込んできた時でさえ、一刻も早く向居を助けるためだったのだろう。だからこそ怪異もあそこまで力を発揮していた。そして今回の、反転。もはやぼくが向居に敵意がない事を示しても遅いのは分かる。
白煙の中、向居の目は確かに言っていた。
妹を止めて、と。
怪異から救い出して、と。
ならばぼくが出来ることは一つ。
そして必要なものは、それを行う覚悟だけだ。
*
部屋を満たしていた消火器の白煙も、開け放たれている窓からの風でだんだんと薄れ始めていた。
その視界ゼロの中では、ぼくと猿の衝突はなかった。双方が警戒をしているうちに、どちらも手を出せないままになっていた。
猿はさきほどの位置から動いてはいなかった。危険な攻めをしない、耳を済ませた待ちの構え。姿勢は中腰の前傾姿勢であり、敵の踏み込む音が聞えれば即座にその場所に攻撃を叩き込もうとしていた。
薄れかけた煙の向こうで音がした。
たったっ、という軽いステップのような音。
猿の位置からは右斜め前にあたる位置。そこで影が揺らいだのを猿は見た。
服の色でそれが向居ではない事を確認すると、即座に床を蹴って影に迫る。
攻撃態勢とは、必然的に無防備なところが生まれてしまうものだ。それがこちらを闇討ちしようとしているなら、生じる隙もまた大きいものになる。そこを狙って、猿はその拳を叩き込んだ。影の中心。高さ的に見て胸の中心に当たる位置に拳が一直線に飛び、まっすぐにそれを貫いた。確実にど真ん中。まさに必殺の一撃。しかし猿は勝利を得てはいなかった。
なぜならその影には一切の手ごたえがなかったから。
猿の突き出された右手には、坂上学園指定の制服のブレザーが大穴を開けてひっかかっていた。そこに宿木都の姿はない。
猿はその事態に困惑する。
しかし、その困惑も一瞬だった。
「――――っ!!!」
次の瞬間には、激しい衝撃が猿の身体を貫いていた。
背後からの攻撃。しかし身体が前に飛ぶことはなかった。
猿は限界まで開いた目で自分の胸を見る。
自分の右手と同じ状況が、そこにはあった。
猿の胸には大穴が開いていた。
そしてその穴から生えている、白銀の手。銀爪は血に汚れることもなく、その美しさを保っている。
猿はなんとか首をねじり、自分の背後を見た。
そして、そこに立つ影を見つける。
一人は自分を貫く腕を持つ少年、ぼく――宿木都であり、もう一人はその手を握り、傍らに立つ自分の守るべき対象、向居カンナの姿であった。
ぼくが目で合図をすると、向居は掴んでいた手を離してくれた。
やっと喋れるようになった。やはり自分の身体から一切の音がなくなる、というのはあまり気持ちのよい体験ではない。
猿は腕の上で苦悶に顔を歪めている。
致命傷の攻撃に、もはや抵抗どころかもがくことさえできないようだ。
猿の背後をぼくがとれた仕掛けは、簡単なものだった。
ただ天井にぶら下がって攻撃をやり過ごしただけだ。
左手の爪を天井に食い込ませて、そこに張り付き、靴を落として注意を引き、脱いだブレザーを揺らして囮にする。あとは猿が囮に食いついたところで、背後に降り立ち、がら空きの背中に攻撃を叩き込んだ。それだけの実にシンプルな戦略だった。
普通ならばこういかなかっただろう。
先ほど同様に、猿の聴力で動きが読まれ、位置はばれて攻撃もかわされたはずだ。
ならばなぜ成功したのか。
その答えもまた、簡単だ。猿は音に注意をしていたのに、最後には不覚を取った。それはつまり音が聞えなかったということだ。その理由だってすぐに見当がつく。つかないはずがない。なぜならここには一人いるではないか。とっておきのサイレンサーを備えた人物が。
こうして猿の手は、自分のかけた呪いによって足元をすくわれることとなった。
そう、ぼくはずっと向居の身体を抱えていた。抱えたままに天井に張り付き、小細工をし、降り立って、攻撃をした。結果として作戦は成功した。面白いほどに簡単に。猿はその聴覚に頼っていたが故に、その優位をなくした時、大きな隙を見せてしまった。
なぜ猿は向居の存在を視野に入れなかったのだろうか。知能の問題ではない。あの呪いも元は猿の手によるものだったのだから、自身が知らないはずがない。
ならばやはり、猿は気づけなかったのだ。
いや、考え付かなかった。自分の守るべき人物が、自分の戦っている相手に、敵に協力をしようなどということが。
だから隙を作ってしまった。
そしてこうして、ぼくに止めをさされている。
やっぱりお前はいいやつだったんだよ。三和川。
向居がこっちを心配そうな顔をしてみている。ぼくは、大丈夫だよ、という表情を向けた。ちゃんと伝わっただろうか。そして伝わったとすれば、それを今から真実にしなければならない。三和川を、助けなければならない。
呼吸を落ち着け、再び意識を集中する。
しかし今度は自分で操るわけではないので、最初の時のような集中はいらない。必要なのは呼び水。スイッチを入れる行為だけだ。
行うのは反転。
宿木都という存在を、別の存在へと変換する。
カードを裏返すように、全てが一瞬で異なるものへとなる。
「痛くない。すぐ済むよ」
この言葉は、三和川に向けたものだったのか、それとも向居に向けたものだったのか。
次の瞬間には、それは始まっていた。
それは三和川の時と同様の現象。しかし前のそれとは、雰囲気も気配も、何もかもが違う。
ぼくの左腕から出た白銀の光が拡散し、ぼくの全身を包む。
その中でぼくの身体は反転する。
しかし今度のそれは左腕だけのものとは違い、痛みはない。
自分の身体が光となって形を失う。喪失感と解放感が同時に精神を透き通らせる。
空気が一瞬で澄む感覚。
闇も穢れも禍々しさも、あらゆる不純物なものが祓われる風が吹き、白煙も掻き消けされて、透き通る空気だけが部屋を満たした時、そこにいる者の姿は、既に宿木都ではなくなっていた。
猿を貫く腕は、確かに長くはあるが、純白の肌のほっそりとした人間の腕になっていた。
そしてその腕を有する身体も、違うものへとなっている。
そこにいたのは一人の女だった。
真っ白な着物を着た。長身の女。透き通るような白い肌、長い髪は白銀であり、その顔はまさに血も凍りつくような美しさを有していた。
白い女を包んでいるのは、神聖ともいえるほどの静謐だった。
新雪のような、誰も触れたことのない純白さと純潔さがあり、近づくことも、直視することでさえ罪に思えるほどの超越した美がそこにはあった。しかしそんな彼女も、一見して人間と違うところがある。白い女には耳が生えていた。目の横でなく、頭の上に、髪と同じ白銀の三角の耳が二つ。そして着物の後ろには尻尾があった。毛のふさふさした、柔らかそうな尾が。それらは確かに、狐のそれに見える。
狐。
それがぼくの左手に住み憑いた怪異の正体であった。
千年この世界に在り続けた妖狐、名を『白夜』という。
史伝にして金狐の次に霊格の高い銀狐と呼ばれる存在。八つの尾を持つ妖狐。狐は霊力の高まりに比例して、その尾をわけ増やすとされる中、最高位の証である九尾を目前とした大妖。
かつて、白夜は自分の作り出した迷宮に人間を誘い込み、弄んだ末にその生命を吸い取りその糧とする、最悪にして最古の迷いの怪異であった。
白夜の目的は最上の怪異である九尾の狐へとなることであり、そのための栄養の摂取を必要としていた。それは例えば、幼い子供たちの感情であり、または自分と同種のもの、怪異を。
魔に属しながら破邪退魔の銀の身体を持った白夜は、怪異でありながら怪異を狩る存在だ。そしてぼくはその手伝いをさせられている。契約のために。
白夜がぼんやりと自分の腕のさきを見ている姿を、ぼくは白夜の中から見ている。
この状態の時は、メインが白夜であり、ぼくはサブだ。完全な反転状態ならば、これが普通の形である。
水面を通して向こう側を見ているような感覚。そこに自分がいるのかいないのか判別することもできない。そんな曖昧な意識の中、ぼくは白夜の静かな声を聞いていた。
白夜は猿に向かい、その美しい口を開く。
「小物よの。小僧もこんなものに手こずりおって。まだまだ、弱いの」
呆れたように言うと、そして貫いたままの左手を、猿の身体ごと軽がると持ち上げた。
怪力などではない。
これは単純な力関係によるものだ。
猿の手と白夜とでは、怪異としての格が違う。
白夜ならば、猿がたとえ万全の状態であったとしても、倒すことに一分とかからなかっただろう。
しかしその圧倒的な力にも制限はある。それは宿木都という名の、出力機関の許容量だ。高位の怪異である白夜は、憑いている者に対しての影響もまた大きい。反転もあまり長い時間行うと、ぼくの身体は再生不可能なほどに崩壊してしまい、その時は同居人である白夜も同様に崩壊する。今のところの問題のない時間は、五秒が限界だ。そのための隙を作るのが、今までの戦闘だった。
「まあよい」
白夜の全身がほのかに光を帯び始める。
白銀の衣を身に纏い、白夜はお決まりの言葉を言った。
「――――名も無き白となれ」
瞬間。
白夜の身体が、空間を白く染める粉雪に変わった。
いなくなったのではない。形が認識できなくなった。粉雪の風が、猿の身体を宙に浮かせたまま、それを包むように舞う。
これが、白夜の行う食事。
白夜自身が粉雪となり、その中で他の怪異を分解し、吸収する。
猿の身体が、だんだんと崩れて行くのが分かる。
自分を構成する力が失われているのだ。
そしてその代わりに、反転していた三和川の身体の輪郭が見えてくる。
やがて裏がなくなり、自然と残った表の面が出てくるように、三和川の身体が顕現した。
白夜ももう一度だけ自分の形を作ると、すぐにまた粉雪となり、それが消えた頃はぼくの身体も元に戻っていた。すべての五感が、一瞬で再びぼくのものになる。いきなり重力の中に放り込まれるような感覚は、何度体験しても慣れるものではない。
反転の反転。
それは白夜の制限によるもの。そしてぼくがこれからも白夜に贄を用意し、いずれ九尾となり、ぼくの身体から出て行くことになる白夜が、その力でぼくの四人の友達と一人の妹をこの世に顕現させる。それがぼくたちの間に交わされた契約だ。
制約と契約。その二つによってぼくと白夜は結びついている。
これで何件目だろうか。疲れていて、思い出すことが出来ない。とにかく先は遠くて、長い。
反転は体力と精神力を同時に消耗する。
白夜から戻り、ぼくはすぐに大の字に横たわった。
もう身体のどこにも力が入らない。左手も、反転の際に元に戻っているけれど、やはりその部分だけ変化があるということはなかった。
ぼんやりと天井を見上げていると、その視界に影が差した。
頭上からぼくを見下ろしていたのは、砂里先生だった。どうやら気を取り戻したらしい。普通に立っているようだから、きっと外傷もないのだろう。安心した。
「おう、ミヤ。生きてるか」
などと、憎まれ口もたたいてくれる。
ぼくは少しだけ微笑んで、答える。
「なんとか……ですけど」
「立てるか」
「……立てません」
「だろうよ。掴まれ」
そう言って、先生は手を差し伸べてくれた。
ぼくもなんとか手を挙げて、それを掴む。自分よりも小さいが、それでも大きな手だ、と思った。この手に今日は二度も助けられてしまった。そしてこれからも助けられてゆくのだろう。
そのまま担ぎ起こされ、先生に肩を借りて立たされた。一人では難しそうだったが、支えられていれば、なんとか立っていられそうだ。
「見ろよ」
先生が正面を指して、言った。
「ああ」
そこでは向居カンナが三和川ミナを腕に抱いていた。抱きしめて、涙を流している。あの涙にはいったいどんな感情がつまっているのだろうか。なんにしろ、自分にかけられた呪いの原因が自分の妹であったことなど、もはや気にしてはいないようだ。いや、そんなことは些細なことなのだろう。きっと二人はそれだけの時間を共有してきたのだ。だからあの二人はきっと大丈夫だ、と思うことが出来た。
砂里先生も、同じ光景を見ながら落ち着いた調子で言う。
「呪い、終わったんだな」
「……そうですね」
たしかにそうだ。
向居カンナの泣き声は、ぼくの耳にも聞えていた。
猿の手は消えたのだ。きっとその効力もまた、消えたのだろう。
静かな部屋の中に、向居の鳴き声だけが響いている。
こうして、“音無しの呪い”は、彼女の中から消え去った。
「おいミヤ。動くぞ」
砂里先生が、いきなり歩き出すので、肩を貸してもらっているぼくは、それについていく形で同じ方向にへと歩くことになった。
向居の前まで来て、しゃがむ。
「お嬢ちゃん。泣くのは少しやめてこっちを見な。どこか怪我をしてないか?」
どうやら向居の身体の方を心配しての行動らしい。
これだけのことがありながら、ここまでちゃんと自分を維持できる。それはきっとすごいことなのだろう。向居も自分が呼ばれていることに気づき、顔を上げた。目は泣き腫らして赤くなりかけているが、他にはさほど怪我はなさそうに見える。
「大丈夫……みたいだね」
先生の言葉に、向居は頷き、
「 」
と言った。
違う! 言えていない。口は動いたが、声が出ていなかった。
どういうことだ? まだ呪いが残っていたのだろうか。
向居も困惑した表情をしている。
ぼくたちの動揺を見抜いたのか、砂里先生が首を振りながら言った。
「慌てるなよ。お嬢ちゃんは声を出すのが久しぶりだから、身体が声の出し方を忘れてるだけだ。発声器官に異常はないんだ。すぐに出せるようになる。なんなら今すぐ出させてやろうか?」
先生が訊くと、向居は首を縦に振った。
気持ちは分かる。呪いがなくなったのだから、そのことをちゃんと確かめて安心したいのだろう。
「ミヤ、動くなよ」
砂里先生がそう言ってぼくに貸していた肩をどけた。
足元がふらついたが、すぐに後ろから支えられることになった。
なぜ後ろから? と、考えて、答えにはすぐに行き当たった。
「あの……砂里先生、これはもしかして……」
背中越しに伸びてくる腕が、ぼくの胸に当てられるのを感じながら、ぼくは先生に訊いた。現状は後ろから身体を抱きしめられているような状況。背中に柔らかいものが当たるのが感じられるけど、たぶんそれどころではない。
その問いに先生は、やはり予想通りの行動を示した。
ぼくのシャツの真ん中に指を通したのだ。ブレザーはさきほど破かれてしまったし、今はシャツの下には何も着ていない。
先生が両手に、両側に向う力をかけようとしているのが、気配で伝わってくる。
先生が少し楽しげに秒読みを開始した。
「……3、2、1」
ゼロっ、という言葉と共に先生の両手が両側に開かれ、シャツのボタンが全部ちぎれて胸の部分が開放された。
そして、ポロリ、という擬音を使わねばならない状況が起きてしまった。
「お、お、お……」
向居が目を丸くしている。
少しずつ声が口から漏れ始め、その口は作戦通りに最後には大きな声を出した。
「女の子っ!?」
ぼくのシャツがなくなり、見えるようになった胸にあるのは、二つのこぶりな乳房だった。鳩胸とかそういうものではなく、完全に女のもの。ブラジャーなんてつけていないのは当然で、身体が動くたびに胸の辺りが揺れるのを感じてしまう。肩のラインが丸くなり、腰がくびれて、四肢がいくらか細くなっている。向居の目の前にあった宿木都の身体は、女のそれになっていた。
宿木都、女の子バージョン。まさしく都ちゃんだ。
これもショック療法なのだろうか。
向居はぼくの姿を見てポカンとし、砂里先生はその姿を見て失笑していた。
当の本人であるぼくはと言えば、喜ぶことも悲しむことも出来ずに、真っ赤になって顔をうつむかせている。
これは反転の後遺症だ。
反転の際、たとえ怪異とはいえ、ぼくは性別が変わる。これはその名残だった。こんなことも、白夜ほどの高位のものでなければ、そうは起こらないそうなのだが。それにこれだっていつまでも続くわけではない。短くて二日、長くて一週間で元に戻る。
はあ、またしばらくさらし生活か。包帯、あとで先生に分けてもわらないとな。
顔を上げると、向居が自分の口を抑えて、自分の出した声に驚いていた。
すぐにまたうれし涙を流して、気を失っている三和川を抱きしめた。
砂里先生も笑っている。
ぼくもなんだか複雑な気持ちだったが、馬鹿にされているわけじゃないし、何かの役に立てるのならこんな身体も悪くないさ、と思っておくことにした。
ぼくの胸やら身体やらのことは置いておくとして、事件はどうやらこれで一件落着のようだった。
散らかりに散らかりつくした部屋の惨状のことも、今は考えないでおこう。
こうして“音無しの呪い”は解決を見たのだった。